変化に効果があると信じることだろう
この数十年、学習を深めるテクニックが次々に明らかになり、実験が行われるようになった。
だが、そのテクニックのほとんどは、専門家以外の人には知られていない。
科学者たちは、コンピュータ・ソフトウェア、ガジェット、薬剤などを使ってもっと賢くなる方法を探しているわけではない。
また、学校全体の成績向上を目指すという教育哲学のもとに研究しているわけでもない(そういう実験を信頼できる形で行った者はいない)。
それどころか、彼らが研究していたのは、小さな変化ばかりだ。
それも、生活のなかに個人ですぐに取りいれられるような、勉強や練習における小さな変化である。
取りいれるにあたってもっとも難しいのは
その変化に効果があると信じることだろう。
このような調査は、これまで勉強にとって最善だと教えられてきたことと矛盾する。
昔から言われ続けてきた
「静かな場所を見つけて自分の勉強場所に決めなさい」
というアドバイスについて考えてみよう。当然のことだと思う人は多いだろう。
雑音がないほうが集中しやすいし、いつも同じ机を使うようにすれば、その席に座ることで脳に「勉強の時間だ」という信号を発することになる。
ところが、学習を研究する科学者によると、勉強する時間帯を同じにせず、場所も変えたほうが学習効率が高まるという。
逆に言えば、時間や場所を固定すると、学習効率が下がるのだ。
特定のスキル(割り算の筆算や楽器でスケールを弾くことなど)を習得する最善の方法は、それだけを繰り返し練習することだともよく言われる。
だがこれも間違いだ。一つのことだけを繰り返し練習するよりも、関連性のある複数のことを混ぜて練習するほうが、脳は効率よくパターンを見いだす。
その人の年齢や、習得したいジャンルは関係ない。
イタリア語のフレーズでも、化学結合でも、結果は同じだという。
こうした話を聞くと、私は奔放に過ごしていた大学時代の自分を思いださずにはいられない。
徹夜したいときは徹夜し、昼間は好きなだけ昼寝をし、計画に従って行動することへの反発を楽しんでいた。
自由な生活をすれば、必ずスキルを習得できると言うつもりはない。
だが、そういう無秩序な生活に学習を溶け込ませるようにすれば、さまざまな場面で思いだす力が向上するのではないか。
また、先延ばしがひどい、気晴らしばかりしている、といった態度も、悪習とは限らないのではないか。
昨今、デジタルメディアがもたらす弊害や依存の危険性を訴える声が大きくなっているが、学習の科学の見解はそうした警告とは異なる(ただし、これは学習の科学の一側面でしかない)。
デジタルの世界につながると、メール、ツイート、フェイスブックのメッセージなどが一度に押し寄せてくる。
そんな状態では勉強に身が入らないのではないか、勉強以外のことに気をそらしていては、脳の学習する力が衰えていくのではないか、と危惧する人は多い。
確かに、デジタルメディアは人の気をそらす。
もちろん、小説を読むときや講義を聴くときのように、その世界に没頭することが求められる学習の場合は、気をそらすことは学習の妨げとなる。
また、ソーシャルメディア上でウワサ話をしていれば、当然、そのぶん勉強時間は奪われる。
たが、学習の科学では、数学の問題で行き詰まったり、固定観念を払拭する必要があるときは、短い気晴らしを挟むとよいと言われている。 要するに、
学習に正しい方法も間違った方法もないのだ。
方法が違うだけであり、方法が違えば、得意とするタイプの情報も変わる。
優れた猟師は、獲物に応じて仕掛ける罠を使い分ける。それと同じだ。