人間というものがわからなくなる?
脳の内側をあまり覗き込みすぎると、脳の外側、つまり人間というものがわからなくなる恐れがある。
ここで言う人間は、総称的な意味での人間ではなく、現実に存在する個人という意味だ。
現実に存在する個人という意味だ。
ミルクを容器から直接飲む人、友人の誕生日を忘れる人、家の鍵をいつも見つけられない人、ピラミッドの表面積を計算したことがない人、そういう特定の個人を指す。
ここでちよっと復習しておこう。
脳の内側を覗いたことで、記憶の形成には細胞の活動が関係するのだとわかった。
記憶を形成する細胞は、その体験をしているあいだ発火し、海馬を通じてネットワークを形成する。
最終的には検索可能な状態で新皮質に落ち着いて、そこに記憶の元となる出来事の大筋が保存される。
しかしながら、記憶を「検索する(思いだす)」ために人が何をするかを把握するには、少し下がって広い角度から見る必要がある。
これまでは、グーグルマップで言うところのストリートビューで細胞を見てきた。
ここからは、ズームアウトしてそれらが集まってできる生命体に目を向けよう。
人の知覚について見ていくことで、記憶の検索にまつわる秘密が明らかになる。
これから見ていく人々もまた、てんかんの患者たちだ(脳科学に対する彼らの貢献は計り知れない)。
てんかんには、脳の活動の炎が化学工場火災のように広がるケースがある。
そうなると、H・Mが若い頃苦しめられた、全身が癌撃して卒倒する発作を招く。
そういう発作を抱えて日常生活を送るのは困難で、投薬治療もほとんど効かない。
だから、脳の手術をしようと考える。もちろん、H・Mと同じ手術をしたがる人はいないが、手術の選択肢はほかにもある。
その一つに、分離脳手術と呼ばれるものがあった。
脳の左半球と右半球のつながりを切断し、細胞活動の嵐をどちらか一方の半球に閉じ込めるのだ。
こうすれば、確かに発作はおさまる。
しかし、その代償は?脳の左半球と右半球の「対話」一切できなくなるのだから、深刻なダメージを招き、
人格が激変するか、人格はそれほど変わらなくても知覚に変化が生まれるのではないか。
ところが、そうはならない。
脳の手術後
術後の変化は本当に微妙なもので、1950年代にいわゆる分離脳患者の研究が始まった当初は、
思考や知覚に変化は見つからなかったIQの低下もなければ、分析的思考が損なわれることもなかった。
脳が半分に切断されたも同然なのだから、何かしらの変化がなければおかしい。
だが、それを明らかにするには独創的な実験を行う必要があった。
1960年代に入り、カリフォルニア工科大学の研究者3人がようやくそれを実現した。
彼らは、一度に一方の半球にだけ絵を見せる方法を考案した。これこそまさに必要なことだった。
分離脳患者の右半球にだけフォークの絵を見せたところ、それが何か答えることができなかった。
名称がわからなかったのだ。
左と右で脳が分離されているため、言語をつかさどる左半球は右半からの情報を何一つ受け取っていなかったのだ。
フォークを見た右半球には、その名称を答えるための言語が存在しない。
そしてこの実験は意外な結末で幕を閉じた。
フォークを見た右半球は、手に命じてフォークの絵を描かせることはできたのだ。
3人の実験はこれで終わりではなかった。
分離脳患者たちにさまざまな実験を行った結果、右半球は触れることでも対象を認識できることがわかった。
マグカップやハサミの絵を見せた後、現物を触ることで絵に描いてあったものがどちらか正しく選ぶことができたという。
彼は右脳の人で、彼女は左脳が強い
この結果が意味することは明快だ。
左半球は知力や言葉を担当する。
だから、右半球から分離しても、深刻なIQの低下は招かない。
一方の右半球はアーティストのようなもので、視覚や空間を専門とする。
この二つは、飛行機をふたりのパイロットが操縦するように一緒に機能するのだ。
この機能の違いが世間にあっという間に浸透し、能力の種類や人のタイプの代名詞として使われるようになった。
「彼は右脳の人で、彼女は左脳が強い」という具合だ。また、人々はこう表現することが正しいとも感じた。
人の感性というものは、開放的で感覚的だ。きっと、冷静な結論とは違う場所で生まれるのだろう。
それはともかく、左右の脳が一緒に機能することは、記憶とどう関係するのか?
大学受験(学習)と脳の関係
脳科学の詳細を知ることで受験が成功するわではありません。ですが勉強を進めていく中で脳の仕組みを雑学的にでも知っておくことで理解を深めたり
マンネリ化していく受験勉強のスパイスになるかもしれません。
一度自分の脳について、考える時間をブレイクとしても受けてもいいかもしれません。