今日は記憶について書いて行きたいと思います。
大学受験の成功を目指している人にとって、「記憶」というシステムとは毎日向かっていますよね。
そんな受験生の皆さんにとっても有意義な記事なると思います。
忘れるのは悪いこと?
記憶力を競う大会は誤解を招きやすい。決勝戦はその最たるものと言っていい。
決勝となると、壇上には一握りの人しか残っておらず、みな、疲弊、恐怖、集中が入り交じった顔をしている。
厳しい戦いを勝ち抜いてようやくここまで来たのに、たった一つのミスですべてが終わる。
英単語のスペルの正確さを競う大会「スクリップス・ナショナル・スペリング・ビー」を追ったドキュメンタリー映画『チャレンジ・キッズ』で、
12歳の少年が「opsimath」のスペルを間違えたシーンは本当に見ていてつらくなった。
少年はその単語を知っているようだった。頭のなかを掘りさげ、わかった顔をしたと思ったが、「o」を一つ余計に入れてしまった。
”カーン”と鐘が一つ鳴り(不正解の合図だ)、少年は信じられない思いで目を見開いた。
観客が一斉に息をのみ、続いて拍手がわき起こる。
ねぎらいの喝采だ。少年はとぼとぼと壇上を降り、まだ呆然としている。
このようなシーンは、入念に準備をしてきた出場者がスペルを間違うたびに繰り返される。
マイクの前でうなだれたり、目をパチパチさせたりしながら、あの少年のときと同じ中途半端な喝采を浴びる。
一方、次のステージに勝ち進んだ子どもは、自信にあふれて落ち着いているように見える。
勝者となった少女は、最後の単語「logorrhea」が出題されると笑顔になり、正しいスペルを答えた。
記憶している人と忘れている人への印象
この種の競技大会を見ると、2種類の印象を抱く
一つは、出場者、とくに勝者は超人的だという印象だ。
いったい彼らはどうやって覚えているのだろう?ただ単に脳が大きくて速く動くのではなく、
標準的な人はつくりが違うように思えてならない。
映像記憶(目に映った対象を映像として記憶する能力)を持っているような気もする。
だが実際にはそうではない。
確かに、生まれ持った遺伝子のおかげで、記憶の容量や処理スピードが優れている人はいる(といっても、「優秀な遺伝子」はまだ特定されておらず、それがどう機能するかも解明されていない)。
それに、記憶力を競うような大会は、記憶力に優れた人や、頭に情報を詰め込むことに執着する知識オタクが集まる傾向が強い。
とはいえ、人間の脳であることに変わりはなく、健康な脳ならどれも働きは同じだ。
十分な準備と努力をしたから、大会の出場者たちは常人とは思えない記憶力を発揮することが可能になる。
また、映像記憶だが、科学の世界ではそういうものは存在しないと言われている。
少なくとも、私たちが想像するような方法で記憶する能力は存在しない。
もう一つの印象はあまりいいものではない。
「忘れることは失敗を意味する」という、よくある自滅的な思い込みについての説得力が増す。
自滅的ではなく自明のことだ、と思う人もいるかもしれない。
誰もがみんな「忘れる」
世の中には「うっかり」があふれている。
何も考えていないティーンエージャーもたくさんいれば、いつもと違う場所に鍵を置いてしまう人もたくさんいる。
また、認知症への不安から、「ものを忘れるようになったら役立たずになる」、「ものを忘れるのは不吉だ」と思っている人も大勢いる。
学習が技術や知識の積み重ねなら、忘却は得たものの喪失という意味で捉えてしまうこともある。