忘却は学習の敵なのだろうか?
いや、違う。実際はその反対だと言っていい。
もちろん、娘の誕生日をど忘れする、山小屋へ戻る道を忘れる、テストのときに答えを思いだせない、といったときは悲惨な事態になりかねない。とはいえ、忘れることには大きなメリットもある。その一つが、人間に生まれつき備わった、非常に精度の高いスパムフィルターとしての役割だ。余計な情報を忘れるおかげで、脳は大事なことに集中し、求めている情報を思い浮かべることができるのだ。
このメリットを際立たせたいなら、スペリングの天才たちをもう一度壇上に集めて別のことを競わせればいい。今度は、当然答えられることを答えるスピードを競わせる。たとえば、「いちばん最近読み終えた本のタイトルをあげなさい」という問題にできるだけ速く答えた人が勝ちになる。最後に見た映画。最寄りのドラッグストアの名前。アメリカ合衆国国務長官の名前。ワールドシリーズで優勝したチーム名。それらの問題で勝ち残ったら、自分のGメールのパスワード、姉妹のミドルネーム、アメリカ合衆国副大統領の名前などを、やはりできるだけ速く答えさせる。
この想像上の競技になれば、知識を大量に詰め込んだ出場者たちは、思いだせないという経験を何度もすることになる。なぜか?うっかりミスや集中力の欠如のせいではない。出場者はみな、注意力が高く知識量も豊富だ。だが、知識が豊富なことが仇となり、ごく当たり前の情報が遮断されてしまうのだ。
考えてみてほしい。珍しい単語を大量に覚えた状態で正しいスペルを答えるのだから、脳は何らかのフィルターを適用しているはずだ。別の言い方をすれば、脳は混同しそうな情報を抑圧している(忘れようとしている)はずなのだ。そうでないと、「apathetic」と「apothecary」を、「penumbra」と「penutimate」を混同しかねない。また、歌の歌詞、本のタイトル、映画俳優の名前など、スペルの邪魔になる情報が意識の表層に出てこないようにもしているに違いない。
忘却を絶えず行っている
私たちは日々、あまり考えることなくこの種の忘却を絶えず行っている。たとえば、コンピュータの新しいパスワードを脳にしまい込むときは、以前使っていたパスワードが浮かんでこないよう遮断する必要がある。外国語を習得するときは、その言葉に対応する母国語が浮かぶのを避けないといけない。何かのテーマ、小説、計算に没頭しているときは、自然とごく普通の名詞まで遮断され、「あれとってくれない?ほら、ものを食べるときに使うあれ」となる。
フォークという言葉すら出てこなくなるのだ。
19世紀のアメリカ人心理学者ウィリアム・ジェームズは、「人間がすべてを覚えているとすれば、何一つ覚えていない場合と同様に都合が悪いことがほとんどだ」と言ったが、本当にそのとおりだろう。
忘却の研究はここ数十年でずいぶんと進み、その結果、学習の仕組みを根本から再考する必要が生まれた。ある意味それは、「覚える」と「忘れる」という言葉の意味をとらえ直すことでもあった。「学習と忘却の関係は決して単純ではなく、いくつかの重要な点で、我々が思っている関係とは反対になる」と、UCLAの心理学者であるロバート・ビョークは私に言った。「忘れることにいいことは一つもなく、脳機能の欠陥だと思われているが、実際には学習の手助けとなることのほうが多い」
忘却についての調査を踏まえると、記憶力選手権での「敗者」が問題を間違ったのは、覚えた単語の数が少なすぎたからではない。何万、いや、おそらくは何十万という単語を勉強した彼らは、よく知っている単語のスペルで間違えることが多い。その原因は、覚えている知識の量が多すぎる場合がほとんどだ。私たちが知覚したこと、覚えた情報、思ったことは、絶えず活動している真っ暗な脳のなかにニューロンのネットワークという形で点在する。想起がこれらを思いだし部分だけを担うとすれば、忘却は、背景のノイズ、つまり想起を妨害するものを遮断し、思いだしたいネットワークが発している信号を際立たせる役割を担う。ネットワークが発する信号の鮮明さは、その他のネットワークが発する信号の強度に左右されるのだ。
天王寺で塾を探している方々も、大学受験勉強のためにこのトピックスを役立ててもらえればと思います。