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【塾トピックス】「勉強の儀式」を守ろうとする人々

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今日は勉強の儀式についてお話しします。ちなみのこのサイトでは天王寺の人気塾を紹介していますが、こういったなんでもないコラムも掲載しているので暇な時はぜひ目を通して見て下さい。

「脳のビタミンを忘れるな」私が通っていたコロラド大学では、試験を受けるときのアドバイスとしてこの言葉が飛び交っていた。少なくとも、ボルダー市街にあるヒッピーに感化された薬局によく顔を出す者のあいだではそう言われていた。その店に入ると、カウンターの後ろの加に、茶血清、ハスの種、麻実池の軟質の小瓶に混じって「勉強の救世主」と書かれたボトルが並んでいた。ラベルの成分表示には、さまざまなハーブの名前、植物の根を原料とするもの、食物繊維、そして「天然由来成分」と書かれていた。

その「成分」は半ば公然の秘密で、たぶん覚せい剤だったのだと思う。
1回分を摂取すると、自信とやる気がみなぎり、夜通し勉強に集中することができた。それがこの薬のメリットだ。しかし、何度か続けて摂取すると、その後ひどい離脱症状が現れ、唐突に深い眠りに落ちる。重機の操作にふさわしくないのはもちん、長い試験を受けるときも明らかに危険だ。1秒日を閉じたら意識がなくなり、鉛筆を床に落とす。そして、「時間だ。答案を提出しなさい」の声がするまで日が覚めない。

この「脳のビタミンを忘れるな」というアドバイスは、とりわけ「集中力を保て」という意味で使われていた。だが私はそのうち、この薬にはもっと別の効果があるのではないかと考えるようになった。薬を飲んで勉強すると、自由奔放な状態になり、ひとり言を言ったり歩きまわったりするのだ。

そして、試験を受けているときに、その興奮状態になりたいと思うようになった。
自分の頭のなかで繰り広げられる会話が聞きたかった。薬を摂取して勉強しているときと同じ感覚になりたかった。私は(というか当時の学生みんなが)、試験の直前に「勉強の救世主」を摂取すればその感覚が得られるのではないかと考えた。

集中力が保てるだけでなく、勉強したことを身近に感じられるようになり、結果としてより多くを思いだせると思ったのだ。その関係性を実証できたかというと、もちろんできなかった。実証したくても、どうすいのかわからなかった。とはいえ、その薬をお守りだと思い、それを飲めば、試験のあと、勉強していたときと「同じ頭」になれると思っていた。それに、その薬は試験に欠かせない存在にもなっていた。

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とくに期末試験の週になると、一日2教科の試験は当たり前で、ときには3教科の日もある。そうした重圧を感じると、人は最悪の習慣に深くのめり込む。チョコレート、タバコ、脳のビタミン、大量のダイエットコーラを摂取する、爪を噛む、といったことをはじめ、もっと強い何かに手を出す場合もある。

生き残るために必死な心理状態のときは、お気に入りの「勉強の救世主」も試験の成績に一役買ってくれると信じ込むことで落ち着きを取り戻せる。だから、みんなそれを飲んだ。「これは脳内化学物質だ」というのが当時の私たちの理屈だった。「脳内化学物質と同じものを求めている」というわけだ。

後になって振り返ってみると、そうした理屈づけをしたのは、純粋に自分を正当化したかったからだと思う。当時の私たちにできる、最上級の正当化だったのだろう。あの頃は、勉強だけではなく、デートや金儲けなどにもそういうイカれた理屈づけをしていて、あまりにも数が多くなったため、あるとき私はそのすべてを不要なものとして切り捨てた。でも、何百万という学生が、脳内化学物質と同様の理屈を生みだしている。そうすることい魅力を感じるのは、願望以上の何かがそこに根ざしているからだろう。そういう理屈は、勉強を始めたその日から、良い勉強の習慣として言われ続けてきた「勉強のルールを決めい」という言葉とうまい具合に一致する。

ルールの順守は、1900年代以降、教育マニュアルの象徴とされてきたもので、この原則は良い勉強の習慣と言われるもののすべてに組み込まれている。たとえば、勉強するときの儀式を確立し、一日のスケジュールを立て、決まった場所で勉強だけをする時間を確保する。早朝でも夜間でもいいので、自宅や図書館のどこかに自分だけの場所を見つけて、誰にも邪魔されない時間を設ける。こうした考えは、少なくともピューリタン(プロテスタント派の清教徒)による献身を勉強の理想ととらえていた時代までさかのほり、その当時から少しも変わっていない。

ベイラー大学の学習の手引は「静かで誰にも邪魔されない場所を選びましょう」から始まるが、これはこの大学に限ったことではない。手引はさらにこう続く。「勉強のときの儀式をつくり、勉強のたびにそれを実践しましょう」「耳栓やへッドホンで周囲の音を遮断しましょう」
「勉強すると決めている時間にほかのことに誘われても断りましょう」ほかにもまだまだあるが、すべてルールの順守を謳っている。考えてみれば、「勉強の救世主」を脳内化学物質だとする理屈も同じだ。

つねに同じ「ビタミン剤」(正確には向精神薬の一種だが)を服用して試験の準備にのぞみ、その後試験を受けるのは、ピューリタン的とは言えないかもしれない。しかし、ルールを守っているのは間違いない。それに、度が過ぎなければ、これは正しいとも言える。勉強にまったく身が入らないのでは、その時間は無駄でしかない。

学生が身をもって学んでいる。とはいえ一般に、勉強のときと同じ精神状態でいるときのほうが、試験で力を発揮できると言われる。もちろんそれには、アルコールや大麻を摂取した状態や、覚せい剤による興奮状態も含まれる。また、気分、先入観、知覚も大切だと言われる。

要は、勉強中にどんな気分になるか、どんな場所で勉強するか、どんなものが日や耳に入ってくるか、といったことだ。これらの影響ーいわゆる精神状態と外的な要因ーについて科学的に調べた調査結果によると、学習の大事な部分への影響はほとんどないことがわかった。そうした影響に気づくことがあったとしても、自分の時間を最大限有効に活用できるという。おかしなことに、この調査によって、ルールの順守という原則が覆されてしまったのだ。

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