その他のコラム

手順や環境に変化をつければ 「学ぶカ」は強化できる

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このように、視点を変えるということを、私たちはしょっちゆう行っている。たとえば、俳優の名前を思いだしたいときがそうだ。その俳優が出演した最新作の場面をたぐり寄せたが、顔はたいわかっても名前が思いだせない。新聞に載っていた顔、テレビ番組に出演していた姿、生で見たことがあればそのときの記憶まで引っ張りだす。このように、脳内にある複数のレンズを使って名前を思いだそうとするのだ。複数を使うほうが、自然と情報は多くなる。

ミスはこれ以降、デジタルを使った実験に移行した。学生に部屋を移動させるのではなく、短い映像を使って背景情報を生みだすようになったのだ。

彼の典型的な実験方法を紹介しよう。まず、被験者を2グループに分ける。そして、一方にはスヒリ語の単語8個を、5分ずつ5回の学習時間で覚えてもらう。単語は1個ずつスクリーンの背景に同じ映像(駅の風景など)が無音で映っている。これにより「同じ環境」という条件が生まれる。もう一方のグループも勉強する単語や学習時間は同じだが、背景の以外の違いは一切ない。

ところが、2日後にその単語のテストを実施すると、背景が変わっループのほうが点数が高く、彼らが平均B個のスワヒリ語を思いだしたのに対し、背景がずったグループは9個かm個しか思いだせなかった。実は、私はこの手の話に目がない。というのは、じっと座って勉強するのが8分も続かないからだ。だから、落ち着きのなさが学習を深めると信じたい。

また、背景の変化が学習に役立拠が、もう少し確かなものになってくれたらと思う。この分野の研究は、正直言って、行きつ戻りつしている感じがする。科学者たちはいまだ、どの手がかりがもっとも重要か、どのタイミングでどのように想起する力が本当に高まるのか、といったことを議論している。背景情報の影響はわかりづらいので、実験で再現するのは難しい。ついでに言うと、「背景情報」を定義するのも難しい。

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気分、動き、BGMなども含まれるのなら、単語、歴史の一節、スペイン語の宿題に取り組むときのあらゆる変化も背景情報になってしまう。考えてみてほしい。手でメモをとるのと、キーボードを使ってタイプするのは別の活動だ。立って勉強する、座って勉強する、ルームランナーで走りながら勉強するのもそれぞれ違う。授業に学習テクニックの適用を勧めていることで有名なダニエル・ウィリンガムは、試験の復習をするときは真っ先にノートを見るなと学生にアドバイスしている。

「ノートは脇に置いて一から自分で概要を作るようにと学生に伝えている。教科書の内容を再編するためだ」と彼は私に言った。「そうすれば、覚えることについて改めて考えざるをえなくなり、これまでとは違った見方でそれを見ることができる」私たちは、このようなことを「環境」の一部にもしているのではないのか?そのとおりである。

ただし、背景情報の研究が私たちに伝えようとしているのは、結局のところ、環境を変えさえすれば、どの部分を変えるかは大した問題ではないということだ。イギリスの哲学者ジョン・ロックは、厳格な儀式にもとづいてダンスを練習し習得した男性について語ったことがある。この男性は必ず同じ部屋でダンスの練習をし、その部屋には古いトランクが置いてあった。残念ながら、ロックの話はこう続いた。

この日立っ家財道具があったせいで、踊るときのターンやステップのすべてにその存在が混ざってしまった。素晴らしく上手に踊れるようになったが、部屋にトランクがあることが条件だった。ほかの場所へ行くと、そのトランクか別のトランクが所定の位置に置かれていない限り、踊ることができなか部屋にあるトランクは外へ出そう。

自分の力を発揮することになる状況を予測すないのだから、準備するときの環境はいろいろと変えたほうがいい。人生には、抜き打ちテストをされるときもあれば、自発的に何かに参加するときもあれば、即興で何かをしないといけないときもある。だが、従来のアドバイスどおりに順守すべきルールを確立しても、それらを必ず守れるとは限らない。

それよりも、場所を変えてみるといい。時間帯を変えてみるといい。部屋にあるギターを外に出そう。部屋でしていたことを、公園や森でしてみよう。いつもと違うカフェに行こう。練習するコートを変えよう。クラシック音楽の代わりにブルースを流そう。いつもの手順や環境に変化を持たせれば、予行練習の内容が豊かになる。

学んだ知識や技術に磨きがかかり、それらを活用できる時間も長くなる。環境の何かを変えること自体が学習の強化につながり、自分を取り巻く環境に頼らなくても知っていることを思いだしやすくなる。

【塾コラム】勉強の体験は 「記憶の保持」に影響を与える

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スミスやほかの心理学者たちが行った実験は、当然ながら勉強の仕方を教えてくれるものではない。実際の試験のときに個人的なBGMを思いだす手がかりにすることはできないし、試験会場を自分が勉強した場所と同じ家具や壁紙にしたり、同じ環境にしたりすることはできない。

 塾でも同じことです。天王寺だろうが東京都だろうが関係なく。

仮にできたとしても、どれが重要なきっかけになるのかも、どれほどの効力があるのかもわからない。とはいえ、スミスの実験によって、今後勉強するときの参考になる貴重なポイントが明らかになった。一つは、学習についての前提が、間違っているとはいかながいまでも疑わしいということ。何しろ、勉強する環境には、音楽などの何かがあるほうが、何もない環境よりもいいということがわつかったのだ(これまでの静かな勉強部屋の聖域扱いはいったい何だったのか)

そしてもう一つのポイントは、勉強という体験には自覚している以上にさまざまな面があり、そのなかには記憶の保持に影響を与えうる面があるということ。科学者たちの言う、思いだすきっかけとなる背景情報ー音楽、照明、壁の色などーは、不本意ではあるが一時的なものだ。それは間違いない。それに、意識することもないので、たいていは思いだそうと思っても思いだせない。

とはいえ、生活のなかで何かをしているときに、それを認識することはできる。門かを勉強していた場所や時間を正確に思いだす瞬間を思い描いてみてほしい。

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高校の選抜チームやプロムクイーンに選ばれた瞬間のことではない。たとえば、オーストリアのフランツ・フェルディナント大公を暗殺した人物は誰か、ソクラテスは何が原因でどのように亡くなったかなど、授業で教わった事実にもとづく意味記憶を学んだ場所や時間のことだ。

私がそう言われて思い浮かべるのは、1982年のある晩に、大学の数学研究棟で試験勉強をしていたときのことだ。当時、大学の建物は一晩中開放されていたので、勝手に入って教室を使うことができた。教科書を広げるのも黒板を使うのも自由で、ビールを持ったルームメイトが突然入ってくるなどの誘惑は一切ない。私はずっとその棟の一室で勉強していた。私以外では、年配の男性が廊下をうろつくことがあった。

格好はみすぼらしかったが物腰は柔らかく、かつては物理の教師をしていた。たまに私がいる教室に入ってきては、「どうして時計にクォーツが使われているか知っているか?」といった質問を投げかけた。知らないと答えると、説明してくれた。彼の話は論理的で、知識も本物だった。そしてある晩、彼は教室に入ってくるいつもの場所、静かな環境で勉強するのは非効率と、幾何学図形を使ってピタゴラスの定理を導きだす方法を知っているかと尋ねた。私は知らなかった。ピタゴラスの定理は数学でもっとも有名な定理で、直角三角形の短い2辺の二乗を足すと、もっとも長い辺の一乗になるというものだ。私は「a+b=c」の形で覚えていたが、それを学んだときに自分がどこにいたのかはまったく覚えていない。

だが、その晩、その定理を導きだすシンプルなーそして美しいー方法を教わったことは思いだせる。しかも、そのときに彼が何を着てたか(青のスラックスを胸まで引っ張り上げて)、どんな声だったか(ほとんど聞こえないくらいの音量でブツブツしゃべっていた)をはじめ、彼が黒板に図を描いた位置(黒板の左下だった)まで正確に思いだすことができる。彼の説明は、cを一辺とする大きな正方形の面積を計算し、正方形を構成する図形の面積の合計が等しくなれば証明できるというものだった。つまり、四つの三角形と、真ん中の小さな四角形の面積を足すのだ。やってみてほしい。

方程式の右側を簡約したらどうなるかを。私は、ミーティングで一番のりになったときなど、薄暗い蛍光灯の教室や会議室にひとり座るたびにこの方程式を思いだす。そういう場所が、あの晩の出来事と方程式の記憶を呼び戻すきっかけとなるのだ(三角形の位置を正確に思いだすのには多少時間がかかるが)。この種の背景情報が記憶を呼び戻すきっかけとなるのは、それを意識したときや日にしたときだ。私がそれらを思いだすことができるのは、そういう背景情報もエピソード記憶の一部だからだ。つまり、少なくとも新しい事実の保持に関しては、無意識で認識している事実も貴重だと学が教えてくれているのだ。ただし、どんなときも必ずというわけではないし(分析作業に没しているときなどは、背景情報は無意識にも残りにくい)、すべての情報が必要というわけでもなときどき貴重な存在になるという話だ。

いずれにせよ、学習に有利になるのであれば、どんなことでも利用したほうがいいあの晩については、ほか私はいつも彼の話につきあった。だから、喜んで彼の説明に耳を傾け、彼の語る「最近の物理の学生がいかにこういうことを何一つ学ほうとしないか」という話にまで聞き入った。そのときの気分も、私が置かれていた「環境」の一部だったと言える。いまでもはっきりと覚えている。そういう状態でなかったら、彼の講義を大人しく聞こうとはしなかっただろう。日や耳に入る情報の復元についての理論が正しいとするならば、その理論は心の内側の精神状態にも当てはまると示す必要があるのではないか。嫉妬、不安、不機嫌、確信など、頭のなかを駆け巡るありとあらゆる感情も、記憶を呼び戻すきっかけとなるはずだ。だが、どうすればそれが証明できるのか?

(次の記事に続く)

【塾コラム】音楽を聴きながら勉強するほうが効率的?

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このオーバンでの実験は、記憶に背景情報が与える影響を研究することに、安心感と勇気を与えてくれた。それまでは、背景情報の影響は偶然のような形で明らかになっていた。実験で覚えるものと言えば、複数の単語もしくは対になる単語がほとんどで、その確認テストは自由再生方式(思いだした順に自由に書く方式)で実施されるのが一般的だった。

(天王寺の塾ではこのような実験は行わないので、ぜひ読んで見て下さい。)

たとえば、青灰色のカードに書かれた無意味な音節を覚えさせる実験を行った結果、同じ青灰色のカードを使った確認テストのほうが、赤などほかの色のカードを使った確認テストよりも数パーセント多く思いだすことができた。また、授業で教わった教師から試験問題を出題されたときのほうが、試験監督官から出題されたときよりも、学生の成績が5パーセント上がった。

記憶と背景情報については、スティーヴン・M・スミスという心理学者が非常に興味深かい。その詳細を見れば、いわゆる背景情報が思いだす手がかりになるに測定し、考えていたかを知ることができる。1985年、スミスはテキサスA&M大学で、心理学入門クラスの剥人の学生ー彼らはいの時代も心理学者のモルモットだーを集めて%の単語を覚えさせる実験を行った。学生は3グループに分けられた。

グループAは静寂のなかで、グループBはジャズ奏者ミルト・ジャクソンの「ピープル・メーク・ザ・ワールド・ゴー・ラウンド」をBGMに、グループCはモーツァルトのピアノ協奏曲第%番ハ短調をBGMに単語を覚えた。音楽は学生が部屋に入ったときから流れ、それが実験に関係あることは伝えなかった。

単語を覚える時間は 10分で、その後部屋を出た。2日後、学生は予告なしで実験室に再び集められ、覚えた単語を思いだした順に書きだすテストが課された。ただし、前回とは条件が変わる学生が大半を占めた。最初の3グループをさらにグループ分けしたのだ。

ジャズが流れるなかで単語を覚えたグループは、今回もまたジャズを聞きながらテストを受けるグループ、モーツァルトを聞きながら受けるグループ、静寂のなかで受るグループに分かれ、最初にモーツァルトが流れていたグループと静寂だったグループも同様れた。つまり、前回とまったく同じ条件か、別のグループの条件のどちらかでテストがのだ。それ以外の変更は一切なかった。変更がなかったのは、テストの点数を除いての話だ。

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テストの結果、ミルト・ジャクソンの演奏が流れるなかで単語を覚え、同じ音楽を聞きながらテストを受けた学生は、平均%の単語を思いだすことができた。これは、同じ条件で単語を覚えたものの、モーツァルトや静寂のなかでテストを受けた学生の平均の2倍である。同様に、モーツァルトが流れるなかで単語を覚え、同じ音楽を聞きながらテストを受けた学生も、ジャズや静寂のなかでテストを受けた学生の2倍近い単語を思いだした。

そして、この実験には意外な「オチ」がついた。単語を勉強したときと同じ条件下でテストを受けた学生のうち、静寂のなかで勉強しテストを受けた学生の点数がもっとも低かったのだ。彼らが思いだした単語数の平均は、ジャズやクラシックがBGMだった学生の約半分だった(%に対しH)。これは実に奇妙な結果で、想定外の疑問が持ちあがった。静寂には、記憶を抑制する何かがあるのだろうか?答えはノーだ。

抑制する何かがあるとすれば、ジャズをBGMに単語を覚えて静寂のなかでテストを受けた学生の点数のほうが、モーツァルトをBGMにテストを受けた学生の点数よりも悪くなっていたはずだ(モーツァルトをBGMに単語を覚え、静寂のなかでテストを受けた学生と、ジャズをBGMにテストを受けた学生の結果もそうなるはずだ)。だがそうはならなかった。

では、いったいどういうことなのか?同じ条件下でテストの点数が高くなるという現象は、復元の理論に合致する。BGMは、保存された記憶に無意識に織り込まれている。だから、同じ音楽が思いだす手がかりとなり、より多くの単語が浮かびあがってくるというわけだ。

だが、静かな部屋で勉強し、その後静かな部屋でテストを受けた学生の点数が低いことは説明がつかないスミスは、勉強した状態を復元するきっかけとなるものが「存在しない」ことが原因かもしれないと論じた。

静寂のもとで勉強しテストを受けた学生にとって、「音の不在は復元の手がかりにならない。痛みや食べものといった刺激の不在が復元のきっかけにならないのと同じだ」と記している。

つまり、静寂という環境は、BGMが流れる環境に比べて復元の材料が乏しいのだ。

【塾コラム】「気分」は学習にどう影響するのか

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中学生でも高校生でも大学生でも、なかなか勉強のスイッチが入らず気分がのらないことってありますよね。私が天王寺で行って言いた塾でもそういった子が多数いた。

これから紹介する物語は、スコットランドのオーバンという港町の沖、水深6メートルが舞台だ。スコットランド西岸沖にヘブリディーズ諸島がある。オーバンは、その内側の島群の一つであるマル島の入江に面した港町で、古くからさまざまなものが沈んでいる地だ。

1934年にァアメリカの蒸気船「ロンド号」が沈んだのもこの近くで、捜索者が水深%メートルに潜ると、スキューバの器具の鉄の部分にさまざまなものが付着する。ほかにも、1889年に行方不明になったアイルランドの「シーサス号」や、1954年に沈んだスウェーデンの「ヒスパニア号」など、数隻の船の残骸も眠っている。この付近には、サメ、タコ、イカをはじめ、ウミウシと呼ばれるカラフルな海の軟体動物が生息している。

1975年、スターリング大学のふたりの心理学者が数名のダイバーを雇い、学習に関する風変わりな実験を行った。心理学者のD・R・ゴッデンとA・D・バデリーは、多くの研究者たちから支持されているある仮説を試そうと考えた。その仮説とは、「人は勉強していたときの環境に戻ると、より多くのことを思いだせる」というものだ。これはいわば、探偵小説でよくある、「ではヒギンズ夫人、殺人のあった晩のことを思いだし、あなたが見たことや聞いたことを正確に教えてください」とた尋ねることの変形だ。

心理学者も探偵のように、勉強した場所の特徴(照明、壁紙、BGMなど)が、脳により多くの情報を引きださせる「手がかり」になると考えているのだ。ただし、ヒギンズ夫人が思いだそうとして再訪するのはエピソード記憶内の殺害現場だが、心理学者たちは再訪先を「情報」に適用しようとした(彼らは記憶を再訪して思いだすことを「復元」と呼んだ)。ここで言う情報は、エストニア生まれの心理学者エンデル・タルヴィングが「意味記憶」と名づけたものを指す。彼らの仮説は強引に思える。二等辺三角形の定義やイオン結合、『十二夜」の主人公ヴァイオラの役割について勉強しているときに、ヘッドホンから聞こえてくる音楽をいったい誰が覚えているというのか?それに、ゴッデンとバデリーがこの実験を思い描いていた当時、復元の根拠となる材料はひどいものしかなかった。

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たとえば、立った状態の被験者の頭に派手に光る照明を仕込んだ箱をかぶせ、イヤホンを通じて聞こえる単語を覚えさせるという実験が行われた(ふたりの被験者が気分が悪くなって途中で離脱した)。板に縛られた状態で無意味な音節を覚えさせるという実験もあった。

こちらは、板がシーソーのように傾き、まるで子どもが校庭で残酷ないじめを行っているようだった。復元は思いだす力を高めると思えたが、ゴッデンとバデリーには確信がなかった。だから理学者が想像で環境をつくるのではなく、被験者は自然に感じるが普通とは言いがた元の理論を試してみようと考えた。そこで、8人のダイバーを集め、水深6メートルあたりで10の単語を覚えさせた。

その後、彼らを2グループに分けた。そして1時間後、一方のグループには陸地で単語の確認テストを行い、もう一方のグループには潜るときの装備を付けさせ、水中でテストした。採点者は陸にいて、防水のマイクを使ってやりとりをした。結果はテストの場所によって大きく分かれた。水中でテストを受けたダイバーのほうが、陸でテストを受けたダイバーよりも%パーセント多く単語を思いだせたのだ。これはかなり大きな差だ。

そうしてふたりの心理学者は、「勉強していたときの環境が復元されたほうが、より多くを常に思いだすことができる」と結論づけた。

ダイビングマスクの向こうに流れる水泡が、覚えた単語のアクセントの位置を思いだすきっかけとなったのかもしれない。マウスピースをくわえながら行うリズミカルな呼吸、担いでいるタンクの重さ、ウミウシが群れで動く姿がヒントになったのかもしれない。あるいは、単語という意味記憶がエピソード記憶(潜りながら勉強したという経験)の一部になったのかもしれない。きっと、いまあげたすべてが思いだすきっかけを与えたのだろう。いずれにせよ、水中で学習した場合、その状況を復元することには効果があるようだ。

【塾トピックス】「勉強の儀式」を守ろうとする人々

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今日は勉強の儀式についてお話しします。ちなみのこのサイトでは天王寺の人気塾を紹介していますが、こういったなんでもないコラムも掲載しているので暇な時はぜひ目を通して見て下さい。

「脳のビタミンを忘れるな」私が通っていたコロラド大学では、試験を受けるときのアドバイスとしてこの言葉が飛び交っていた。少なくとも、ボルダー市街にあるヒッピーに感化された薬局によく顔を出す者のあいだではそう言われていた。その店に入ると、カウンターの後ろの加に、茶血清、ハスの種、麻実池の軟質の小瓶に混じって「勉強の救世主」と書かれたボトルが並んでいた。ラベルの成分表示には、さまざまなハーブの名前、植物の根を原料とするもの、食物繊維、そして「天然由来成分」と書かれていた。

その「成分」は半ば公然の秘密で、たぶん覚せい剤だったのだと思う。
1回分を摂取すると、自信とやる気がみなぎり、夜通し勉強に集中することができた。それがこの薬のメリットだ。しかし、何度か続けて摂取すると、その後ひどい離脱症状が現れ、唐突に深い眠りに落ちる。重機の操作にふさわしくないのはもちん、長い試験を受けるときも明らかに危険だ。1秒日を閉じたら意識がなくなり、鉛筆を床に落とす。そして、「時間だ。答案を提出しなさい」の声がするまで日が覚めない。

この「脳のビタミンを忘れるな」というアドバイスは、とりわけ「集中力を保て」という意味で使われていた。だが私はそのうち、この薬にはもっと別の効果があるのではないかと考えるようになった。薬を飲んで勉強すると、自由奔放な状態になり、ひとり言を言ったり歩きまわったりするのだ。

そして、試験を受けているときに、その興奮状態になりたいと思うようになった。
自分の頭のなかで繰り広げられる会話が聞きたかった。薬を摂取して勉強しているときと同じ感覚になりたかった。私は(というか当時の学生みんなが)、試験の直前に「勉強の救世主」を摂取すればその感覚が得られるのではないかと考えた。

集中力が保てるだけでなく、勉強したことを身近に感じられるようになり、結果としてより多くを思いだせると思ったのだ。その関係性を実証できたかというと、もちろんできなかった。実証したくても、どうすいのかわからなかった。とはいえ、その薬をお守りだと思い、それを飲めば、試験のあと、勉強していたときと「同じ頭」になれると思っていた。それに、その薬は試験に欠かせない存在にもなっていた。

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とくに期末試験の週になると、一日2教科の試験は当たり前で、ときには3教科の日もある。そうした重圧を感じると、人は最悪の習慣に深くのめり込む。チョコレート、タバコ、脳のビタミン、大量のダイエットコーラを摂取する、爪を噛む、といったことをはじめ、もっと強い何かに手を出す場合もある。

生き残るために必死な心理状態のときは、お気に入りの「勉強の救世主」も試験の成績に一役買ってくれると信じ込むことで落ち着きを取り戻せる。だから、みんなそれを飲んだ。「これは脳内化学物質だ」というのが当時の私たちの理屈だった。「脳内化学物質と同じものを求めている」というわけだ。

後になって振り返ってみると、そうした理屈づけをしたのは、純粋に自分を正当化したかったからだと思う。当時の私たちにできる、最上級の正当化だったのだろう。あの頃は、勉強だけではなく、デートや金儲けなどにもそういうイカれた理屈づけをしていて、あまりにも数が多くなったため、あるとき私はそのすべてを不要なものとして切り捨てた。でも、何百万という学生が、脳内化学物質と同様の理屈を生みだしている。そうすることい魅力を感じるのは、願望以上の何かがそこに根ざしているからだろう。そういう理屈は、勉強を始めたその日から、良い勉強の習慣として言われ続けてきた「勉強のルールを決めい」という言葉とうまい具合に一致する。

ルールの順守は、1900年代以降、教育マニュアルの象徴とされてきたもので、この原則は良い勉強の習慣と言われるもののすべてに組み込まれている。たとえば、勉強するときの儀式を確立し、一日のスケジュールを立て、決まった場所で勉強だけをする時間を確保する。早朝でも夜間でもいいので、自宅や図書館のどこかに自分だけの場所を見つけて、誰にも邪魔されない時間を設ける。こうした考えは、少なくともピューリタン(プロテスタント派の清教徒)による献身を勉強の理想ととらえていた時代までさかのほり、その当時から少しも変わっていない。

ベイラー大学の学習の手引は「静かで誰にも邪魔されない場所を選びましょう」から始まるが、これはこの大学に限ったことではない。手引はさらにこう続く。「勉強のときの儀式をつくり、勉強のたびにそれを実践しましょう」「耳栓やへッドホンで周囲の音を遮断しましょう」
「勉強すると決めている時間にほかのことに誘われても断りましょう」ほかにもまだまだあるが、すべてルールの順守を謳っている。考えてみれば、「勉強の救世主」を脳内化学物質だとする理屈も同じだ。

つねに同じ「ビタミン剤」(正確には向精神薬の一種だが)を服用して試験の準備にのぞみ、その後試験を受けるのは、ピューリタン的とは言えないかもしれない。しかし、ルールを守っているのは間違いない。それに、度が過ぎなければ、これは正しいとも言える。勉強にまったく身が入らないのでは、その時間は無駄でしかない。

学生が身をもって学んでいる。とはいえ一般に、勉強のときと同じ精神状態でいるときのほうが、試験で力を発揮できると言われる。もちろんそれには、アルコールや大麻を摂取した状態や、覚せい剤による興奮状態も含まれる。また、気分、先入観、知覚も大切だと言われる。

要は、勉強中にどんな気分になるか、どんな場所で勉強するか、どんなものが日や耳に入ってくるか、といったことだ。これらの影響ーいわゆる精神状態と外的な要因ーについて科学的に調べた調査結果によると、学習の大事な部分への影響はほとんどないことがわかった。そうした影響に気づくことがあったとしても、自分の時間を最大限有効に活用できるという。おかしなことに、この調査によって、ルールの順守という原則が覆されてしまったのだ。

【塾コラム】「強い手がかり」ほど思いだす効力が大きい

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リーの名称など、思いだす直接かりのを与えれば、それが脳内の手がかりにあっさりと打ち勝つ。そして、アやマリ以外のドラッグについても研究が進んでいった。いずれの効力もあまり強くないことがわ脳内の手がかりも外的な手がかりも、ともに思いだすきっかけとなりうるが、強力な手がかりが現れれば、その存在はかすんでしまうのだ。

外的な手がかりや脳内の手がかりを探しているときの脳のふるまいは、キョロキョロと周囲をうかがう食事相手のようだと言える。食卓の中心となっている会話(宿題の内容、覚えないといけない楽譜や事実など)を絶えず追いながら、ときどき会話に参加する。

その一方で、定期的に素早く周囲を見回したり室内を観察したりしながら、見聞きしたものや匂い、そのときの体内の反応、感情、感覚などのメモをとる。流れているBGM、ロウソクの炎のゆらめき、空腹感など、その出来事の特徴となる情報は、後から会話のポイントを思いだすときの役に立つ。

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未知のことが話題であればなおさらだ。ただし、どんなときも強い手がかりのほうが好まれる。このことを踏まえたうえで、改めて幾何学図形を使ったピタゴラスの定理の証明について考えてみたいと思う。9年前の数学研究棟でのあの晩の場面を思い起こせば、証明も頭のなかで再現され始めるが、先にも述べたように、図形の内側の三角形の正しい位置を思いだすのにとまとう。

だが、誰かが図形の一部を描いてくれさえすれば、直ちにすべて思いだす。図形の一部という手のほうが、当時の環境の復元によって提供される手がかりに勝るのだ。必要なときに手がかりが提供される世界であれば、このシステムは理想的だと言える。テ、勉強したときの環境をそっくりそのまま気軽に再現できたら最高だ。勉強中と同じ音楽が流れ、同じ日差しの明るさになり、同じ精神状態になれたら、脳がその内容を最初に保存したときに表れていた、内面的な特徴と外的な特徴がすべて再現できたら、これほと素晴らしいことはない。

これは、例の「勉強の救世主」に当てはまると言える。この薬は、摂取する場所、タィミング、量を自分で決めることができる。そして、自分がいちばん必要とするときに、調子が出ない頭を有益な情報でいっばいにしてくれるものだと信じている。

これと同じ理由で、覚せい剤やそれに類するものが心理的な支えとなるケースは非常に多い。だから、研究者たちはドラックを研究に使った。ドラッグは、特定の精神状態を素早く、そして確実に再生してくれる。

ただし、それが最善の方法というわけではない。特定の環境やドラッグに頼らなくても、内面的な手がかりや外的な手がかりがもたらす効果を活用する方法はある。

【塾トピックス】記憶の基本原理とは

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今日も天王寺も大阪も塾も家庭教師も何も関係ないですが、別記事でも話したバラードについての話をします。

さて、フイリップ・バラードに話を戻すとしよう。彼が生徒に実施した最初の確認テストは、「へスペラス号」の詩を思いだせた量を測る役割を果たしただけではない。覚えた詩の「保存の力」と「検索の力」を高める役割も果たした。テストをする前に比べて、その記憶をより深く定着させるとともに、より簡単に引きだしやすくしたのだ。
2日後に同じテストを抜き打ちで実施したとき、最初のテストで思いだせた行は、すぐにはっきりとそのほとんどを思いだすことができた。その結果、それ以上の言葉をかき集める時間が脳に生まれた。

だから、思いだせた行を、残りの詩を探す骨組みとして、部分的に完成しているジグソーパズルとして、思いだせていない行を探りだすための手がかりとして活用したのだ。バラードが覚えさせた詩の一節というのは、言ってみれば、修辞表現と意味の塊だ。それこそまさに、「レミニセンス」の効力が何よりも強い素材である。だから、生徒たちの点数は上がって当然なのだ。

もちろん、「ヘスペラス号」のことを考えるのをやめれば、いずれその記憶は脳の奥深くに沈み、それを検索する力は限りなくゼロに近づくだろう。しかし、3回日、4回日とテストを重ね활るたびに、その詩は記憶のなかにいっそう深く定着していく。

詩の記憶を引きだせと定期的に命じられるようになった脳は、詩の一部を成す言葉や行を探し続け、テストのたびに、1行もしく!はいくらかの言葉を以前よりも多く引きだそうとする。たとえ1回日のテストで半分しか思いだ{せなくても、回を重ねていけば、いずれ詩のすべてを思いだせるだろうか?その可能性は低い。いくらか多くは思いだせても、全部は無理だ。

記あなたも実際に、1日後か2日後に自分でテストしてみるといい。先ほど覚えた「ヘスペラスか号の難破」を、何も見ずに思いだせるだけ書きだしてみるのだ。

この章の冒頭でテストしたとき}と同じ時間を制限時間とし、結果を比較してみよう。たいていの人は、2回日の成績のほうがいい。
記憶を使えば記憶は変わる。そいく脳に定着する。

それは、余計な情報をふる己爱にかけるとともに、覚えたことを一時的に断絶することで可能になる。断絶した記憶をその後再び引きだすと、検索の力と保存の力が以前よりも高まるのだ。こうした働きは、脳生物学と認知科学によって明らかにされた、記憶の基本的な原理である。これらの原理が、次章から説明するさまざまな学習テクニックの土台となり、テクニックの理解を助けてくれる。

【塾トピックス】古く感った記憶を保存しておくメリット

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今回も記憶に関するトピックス。天王寺の塾が思う記憶に関する思いを綴りました。

保存と検索について理解するには、これまで会ったことのある人が(最後に会ったときの年齢で)一堂に会する大規模なパーティを思い浮かべるのも一つの手だ。そこには、母親と父親、小学1年のときの担任、隣に引っ越してきたばかりの隣人、大学2年のときに通った自動車教習所の教官など、ありとあらゆる人が集まっている。

検索では、人の名前が浮かぶスピードが重要になる。一方、保存では、その人との親密さが重要になる。母親と父親は、忘れようがない(検索の力も高く、保存の力も高い)。小学1年のときの担任については、名前はすぐに出てこないが(検索の力は低い)、ドアのそばに立っているのが担任だとすぐにわかる(保存の力は高い)。それとは対照的に、新たにできた隣人は、「ジャステインとマリアです」と自己紹介されたばかりで名前はすぐにわかるが(検索の力は高い)、あまり詳しくは知らない(保存の力は低い)。

翌朝になれば、彼らの名前を思いだすのは大変だろう。自動車教習所の教官の場合は、名前もすぐに出てこなければ、大勢のなかから彼を見つけだすのも簡単ではないだろう。教習所に通ったのは、たった2カ月なのだから(検索の力も保存の力も低い)。

一人ひとりを見つけて名前を確認するという行為を続けると、保存と検索の両方の力が増大する。小学1年のときの担任は、向こうが名乗ってくれれば、検索の力は格段に高くなる。これは、忘却の受動的な側面である、時間がたつにつれて検索の力が弱くなることが原因だ。「覚えるために忘れる理論」によると、検索の力が下がることで、忘れていた事実や記憶を再び見つけたときに、より深い学習を促進するという。ここでまた、筋肉の増強になぞらえてみよう。

麗華をすると筋肉の組織が破壊され、1日休息をとった後で再び懸垂を行うことで、より強い筋肉が形成される。これと同じなのだ。それだけではない。記憶の検索が困難になるほど、その後の検索と保存の力(学習の力)が高くなる。ビョーク夫妻はこの原理を「望ましい困難」と呼ぶ。その重要性は、この先読み進めていくうちにわかってもらえると思う。

自動車教習所の教官の名前はすぐには思いだせないが、一度思いだせば、思いだす前よりもずっと親しみを感じ、知っているということすら忘れていたこと、たとえば、教官の名前やニックネームだけでなく、顔をゆがめる笑い方や、彼の口癖などを思いだすこともある。脳がこのシステムを発達させたのにはちゃんとした理由がある、とビョーク夫妻は主張する。

類が遊牧していた時代、脳は絶えず頭のなかの地図をまっさらにして、天候、地形、捕食者の省化に適応していた。検索の力が進化して素早く情報を更新できるようになり、もっとも関係の深い情報がいつでも取りだせるようになった。検索の力はその日を生きるためのものだ。一方、存の力が進化したことで、必要に応じて決まったやり方をすぐに学び直せるようになった。

季は移り変わっても、繰り返し巡る。天候や地形も同じだ。保存の力があれば、未来を計画することができる。気まぐれな「検索の力」と着実な「保存の力」という、ウサギとカメのようなこの組み合わせは、現代社会で生き残るためにもやはり重要な役割を果たす。たとえば、北米の家庭で育つ子どもは、教師や親と話すときはきちんと日を見て話しなさいと教わるが、日本の家庭で育つ子どもは反対に、日上の人と話すときは相手の日を見てはいけないと教わる。文化の異なる国に移ってうまくやっていくには、母国の習慣を遮断するか忘れるかして、新しい習慣を素早く吸収しないといけない。母国の習慣を忘れようとしても難しい。

なぜなら、保存の力が高いからだ。だが、それらを遮断して新しい文化になじもうとすれば、検索の力が低くなる。それができるかどうかが生死にかかわることもある。仮にオーストラリアの人がアメリカに引っ越すとなれば、道路の左側ではなく右側を車で走る習慣を身につけないといけない。運転中のこれまでの感覚が、ほぼすべて逆になるのだ。

ミスは許されない。メルボルンのことを思い浮かべて一度でも運転すれば、溝で目を覚ますことになるかもしれない。この場合もやはり、記憶はとになる。それだけではない。3年後にホームシックにかかってオーストラリアに戻ることになれば、再び左側通行に切り替える必要が出てくる。ただし、この変更は最初のときよりもずっと簡単にできる。

昔の感覚はまだ脳内に残っているし、それらの保存の力は高いままだからだ。老犬が昔の芸を取り戻すのは早い。ビヨークはこのような記憶のシステムについてこう記している。「古くなった記憶を上書き、または消去するシステムと比較すると、引きだすことはできなくなるが保存されたままでいるシステムになメリットがある。

引きだせなくなるおかげで、それらの記憶が最新の情報や手順の妨げになることはない。そして、記憶にとどまっているおかげで、少なくとも特定の状況を思いだすことができる」
このように、忘れることは、新たなスキルの習得にとって、そして、古いスキルの保存と取り戻しにとって不可欠なのだ。

【塾トピックス】記憶には保存と検索の力がある

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これにより、研究者たちにはさらに大きな謎が残された。絵を思いだす能力は改善するのに、単語を思いだす能力が改善しないのはなぜなのか

科学者たちは、その答えについて考えをめぐらせた。記憶を探しだすのにかかる時間が関係しているのではないか。それとも、次のテストまでの時間が長くなるほど緊張がほどけ、疲労が和らぐのではないか。だが結局、確固とした証拠が十分に揃い、バラードが提唱した効力をはじめとする記憶の奇妙な性質を論理立てて説明するようになるのは、1980年代に入ってからのことだった。そのときに登場した理論は、脳の働きを描く壮大な青写真というよりも、調査にもとっいて生まれた原則と言える。それは、エビングハウスとバラードの考えだけでなく、彼らに反対しているように思えるアイデアや性質の多くを包括する理論であった。

その理論を完成に導き、誰よりもわかりやすくその特徴を示した科学者が、先に紹介したUCLAのロバート・ビョ「クと、同じくUCLAに勤務する妻のエリザベス・リゴン・ビョークだ。不使用の新理論(「覚えるために*れる理論」は、ふたりの子どもと言っても差し支えない。

この理論の第一の原則は、「どんな記憶にも、保存と検索という二つの力がある」だ。

「保存の力」は、学んだことを覚えている尺度だと思えばいい。この力は、
まっていき、勉強したことを使うことで力が研ぎ澄まされていく。九九の表かのときに繰り返し頭に叩き込み、生涯にわたって使う。使う場面は、シップの計算、小学4年生の宿題の手伝いまでさまざまで、この表の保存の力は大
ピョークの理論によると、保存の力は増えることはあっても減ることは対にない。見聞きしたことや自分の発言のすべてが、死ぬまで永遠に保存されるという意味で。することの9パーセント以上が、あっという間に消え去ってしまう。

最初は信じがたいと思うかもしれない。私たちが日どれだけの量の情報を吸収し、その大半がありふれたものであることを思えば当然だろう。だが、第1章で述べた、「人という生物には記憶を焼きつけるスペースがある」という話を思いだしてほしい。
ありふれたものすべて、意味のない誰細一つひとつがすべて記憶にあると証明するのだ。

とはいえ、脳が驚くほどどうでもよい情報を送ってくることがときどきある。誰もが経験したことがあると思うが、私の例を一つ紹介しよう。この本の調べものをするときに、大学の図書館を利用することがあった。伝統ある学校らしい建物に入り、古い本が大量に並ぶ地下1階と地下2階に行くと、遺跡を発掘しているような感覚になる。古い本のカビっほい匂いをかいだせいか、ある日の午後、コロンビア大学の図書館を訪れていた私は、自分が通っていた大学の図書館で1カ月間だけ働いた1982年に連れ戻された。

コロンビア大学図書館の人気のない一角で古い本を探していると、息苦しさを感じて自分がどこにいるかわからなくなった。そのときに、頭のなかにある名前が浮かんだ。ラリー・C(苗字は頭文字しか思いだせなかった)。図書館で働いていたときの私の上司の名前だ(と思う)。彼には度しか会ったことがない。感じのいい人だったことは覚えているが、名前まで覚えていたとは自分でも意外だった。

とはいえ、いざ名前が出ると、彼がミーティングから歩き去る姿や、デッキシューズのかかとが向かいあうようにすり減っている様子まで思いだしていた。1回のミーティング。彼が履いていた靴。どちらもまったく意味はない。しかし、私はその彼の名前を知っていて、彼が歩き去る姿の印象を記憶していたのだ。いったい、なぜそんな情報を保存しようとするのか?

それは、人生のある時点では有益な情報だったからだ。そして、覚えるために忘れる理論はこう言っている。「一度保存された情報は、永遠にそこにある」つまり、脳内の記憶は、徐々に消え去ってなくなるという意味で「失われる」ことは絶対にないのだ。失われるのではなく、一時的に引きだすことができないだけで、記憶の「検索する力」いかゼロに近い状態だということだ。

記憶のもう一つの力である「検索する力」は、情報の塊をいかに楽に思いだせるかの尺度だと思えばいい。これもやはり、学習して使うことで力が増大する。ただし、「強化」をしないと、検索する力はすぐに衰えてしまう。また、その容量は、保存する力に比べて小さい。ヒントや思いだすきっかけとなる何かから、関係する情報を引きだすことはできるが、どんなときもその数には限りがある。

たとえば、バスのなかでアヒルの鳴き声の着信音が聞こえたとしよう。そうすると、同じ着信音にしている友人の名前や、電話をかけないといい相手のことが頭に思い浮かぶかもしれない。あるいは、家族で飼っていた犬がお腹から湖に景や、子どものときに初めて着た、フードにアヒルのくちばしがついた真っ黄色のレインコートが浮かぶかもしれない。

アヒルに関連する記憶は何千とあり、記憶が形成されたときは何かしらの意味があったが、そのほとんどは一切検索に引っかからない。保存の力に比べると、検索の力は不安定だ。強くなるのも早いが、弱くなるのも早い。

【塾トピックス】バラードの研究結果が認められた

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バラードが研究成果を発表してから数十年が過ぎた頃、何もしなくても思いだす量が増えるという「自然な改善」に対する関心の炎が静かに燃えあがり始めた。その効果はあらゆる種類の学習のなかで簡単に見つけられるはずだと科学者たちは考えた。
ところがそうはいかなかった。さまざまな実験を記録したところ、結果に規則性は見いだせなかった。

たとえば、1924年に実施された大規模な実験では、単語の一覧を被験者に覚えてもらい、その後直ちに確認テストをした。それから、8分、B分、3日、1週間後にも再度テストを実施した。すると、結果の平均は悪くなる一方で、改善は見られなかった。1937年の無意味な音節を覚えさせた実験では、5分後のテストではいくらかの自然な改善見られたものの、その後点数は下がった。

広く引用されている1940年に実施された実験で
、単語の一覧、短い文章の一覧、散文1段落を被験者に覚えさせたが、劉時間後にはどれも思だす量が減少した。どれか1種類の教材、たとえば詩の記憶に改善が見られることはあっても、単語の一覧といったほかの教材で反対の結果が表れた。

「実験を行おうとする心理学者たちは、バラードのアプローチを利用し始めた。そして、流砂にとらわれたかのように、混乱と疑念にはまり込んでいった」と、ブルックリンカレッジ心理学教授のマシュー・ヒュー・ェルデリは自著で綴っている。

こうして異なる結果が表れたことから、当然、バラードの方法を疑う声があがった。彼がテストを実施した子どもたちは、本当に時間がたってからのほうが多く思いだしたのだろうか?それとも、実験のやり方に何か不備があったから改善したのか?たとえば、次のテストを受けるまでのあいだに、子どもが詩を復習していた可能性はなかったのか?その場合、バラードの実験は何の意味もなさない。

学習理論を研究するイギリスのC・E・バクストンは、1943年までに発表された調査を検証したレビュー論文を発表し、学会に大きな影響を与えた。このなかで彼は、バラードが提唱した自然な改善の効果は「見ようとすると起きない」のだから、要は幻影だと結論づけた。パクストンの提示にならって追究をやめる科学者が次々に現れるのに、そう長くはかか影を追いかけるくらいなら、心理学というツールを使ってできる有意義なことはほかにたくさん

あった。時代の先端を行く研究がそれではなかったのは確かだ。フロイトの精神療法が台頭すると、抑圧された記憶を回復するというフロイトの考えは、心理学者らの日に魅力的に映り、バラードのロングフェローの一節を容易に圧倒した。フロイトとバラードの主張は、ともに一度忘れた記憶が回復するというまったく同じものだった。

ただし、フロイトの言う記憶は、抑圧された心的外傷を指す。それらを掘り起こして「向きあう」ことが、慢性的な機能不全をもたらす不安からの解放につながるというのが彼の主張だ。記憶の回復が人生を変えるとフロイトは言う。フロイトの言う記憶が幻影だとしても、暗唱した詩の山とは比べものにならないほど現実味がある幻影だ。

それに、別世紀半ばの学習の科学で実際に注目を集めていたのは「強化」だった。行動主義の研究が真っ盛りだったのだ。アメリカ人心理学者のB・F・スキナーは、賞罰が行動にどのように変化をもたらし、また、多くの状況でどのように学習を加速させるかを示した。スキナーはさまざまな報償を用意して比較実験したのだが、その結果は意外なものだった。

正しい答えを出すたびに自動的に報償を与えても、ほとんど学習にはつながらず、断続的にときおり報償を与えるかに学習効果が高いのだ。スキナーの研究は教育者に多大な影響を与え、教え方の注日が集まり、記憶の特異な点には見向きもされなくなって、バラードの研究結果がすっかり消え去ったわけで。

少数の心理学者たり続けた。彼らは、何か大事なことが見過ごされてもしれないという考、バラードの研究がになっていた結論を言えば方法に不備があったのではない。考えてみれば、最初の確認テストを受けた後習することなどできなかったはずだ。覚えていないものを練習できるわけがない。

作為な文章の一覧を覚えても、その効力は一切表れない。覚えた翌日や2日後に確認テストを行っても、点数の自然な改善は見られない。ところが、映像、写真、スケッチ画、絵画、そして詩などの何かを描写する言葉や文章になると、高い効力が表れる。

それも、時間がたってから表れる。バは、最初のテストでは思いだせなかった詩の行が、効力がもっとも強く表れる、覚えてから数日後に「浮かびあがってくる」ことを見いだした。ほかの研究者たちもそれを見いだそうとしたが、数分後というようにテストするのが早すぎたり、1週間後というように遅すぎたりしたから見いだせなかったのだ。

マシュー・エルデリは、「レミニセンス」を明らかにした心理学者のひとりだった。彼は、研究室の後輩にあたるジェフ・クラインバードを被験者にすることから実験を始め、その後スタンフォード大学で実験を行っだエルデリはクラインバードにQ枚の絵を一度に覚えさせた。

そのときは、誰かで実験をする前に「自ら被験者を経験しておくべきだ」と言ってクラインバードを説き伏せた。そして本当にクラインバードは被験者となり、エルデリは覚えさせてから1週間のあいだに、何度も突発的にテストを実施した。その結果は明快だった。覚えてから2日のあいだに実施したテストで、思いだせる量が増えたのだ。
この結果は信頼できると考えたふたりは、大規模な実験を行うことにした。ある実験では、若者を集めて%枚のスケッチ画を覚えさせた。スクリーンに5秒間隔で1枚ずつ映しだされるのを見て覚えるという方法で、スケッチ画は、ブーツ、椅子、テレビといったわかりやすいものばかりを選んだ。すべてを見せた直後にテストを実施し、7分の制限間で思いだせるスケッチ画を言葉で書きださせた(スケッチ画に言葉は一切書かれていなかった)。

テストの平均点は50だった。だが、2時間後のテストの平均点は60、1日後のテストでは70、4日後には80まで上昇し、そこで頭打ちとなった。一方、スクリーンに映しだされた「単語」を覚えたグループは、2時間後のテストで最初の平均点40から50に改善したが、それ以上の改善はなかった。その後数日のあいだに、徐々に点数は下がっていった。

もはや議論の余地はない。エルデリが論文で述べたように、記憶は「異なる機能が不規則に働くシステムであり、時間の経過とともに改善と減少の両方が起こる」のだ。