人生のどこかの時点で、人は必ず「努力しなくても試験でいい点数をとる子」に出会う。「何が起きたのか自分でもわからない」と言いながら、100点満点の試験で90点をとっている。「ろくに勉強しなかったのに」と彼女は言う。こういうタイプの子は、大人になってからも必ず周りに現れる。
天王寺で塾でも、スラスラと授業を理解し、苦労なく良い点数を取る生徒さんは確かにいます。
自分の子どもが学校に通うようになれば、すぐに見つかる。子どもを迎えに行き、その場で会った母親から、「よくわからないのだけど、うちのダニエルが共通テストでいちばんだったの」と驚いたような顔で言われる。「私に似たんじゃないことは確かよ」。どれだけ準備をしても、どれだけ早起きして取り組んでも、大した努力もせずに自分以上の結果を出す子や、なぜか試合になると活躍する子は必ずいる。
そういう子の能力を解明しようというのではない。私は、試験を受けることを一つの技術として切りとった研究について何も知らないし、その能力が絶対音感のように生まれ持った才能だという証拠があるかどうかもわからない。そういうタイプの人間が存在すると教えてくれる研究は私には必要ない。この日でしょっちゅう見てきたからだ。それに、彼らの能力を養んだところでその差は縮まらないとわかる年齢でもある。そんな研究を探したり、美深んだりしても意味はない(経験者が語るのだから間違いない)。
テストで本当に力を発揮できるようになる何かが欲しいなら、ものをもっと深く理解する以外に道はない。テストは決して単純なものではない。あなたが想像する以上にさまざまな顔を持っている。まずは、テストを受ければ「惨事が起こる」可能性があるということから話を始めよう。惨事は誰の身に起こってもおかしくない。
無知を味方にする
問題冊子を開いたら、全部別の授業に関する問題だった、という経験があなたにもあるのではないか?これについては大好きな逸話があり、何かで挫折を味わうと、私は必ずこの話を思いだす。ウィンストン・チャーチルは、イギリスの名門男子校であるハーロー校の入試に備えて何週間も前から準備をしていた。彼はどうしてもこの学校に入りたかった。1888年3月、いよいよ迎えた入学試験当日、チャーチルが試験問題を開くと、そこにあったのは歴史と地理の問題ではなく、まったく予想していなかったラテン語とギリシャ語の問題だった。
頭が真っ白になった、と彼は当時のことを振り返っている。そして、1問も答えることができなかった。「答案用紙のいちばん上に自分の名前を書いた。それから、問題の番号である『1』と書いた。しばらく考えて、それにかっこをつけることに決め、『Q』とした。だがその後、正しい答えも、答えに関係がありそうなことも、一切思いつかなかった。
用紙に付いた染みと不鮮明な箇所がたまたま日に入り、まるまる2時間、その悲しい光景を見つめていた。そして終了時間になると、係の者がうやうやしく私の答案用紙を回収し、校長の机まで持っていった。
これがあのウィンストン・チャーチルの身に起きたのだ。
どんなに優秀でどんなに努力してもその努力が必ず実るとは限りません。
大切なのは正しい努力をするということ。
塾ではテストで確実に点数を取れる勉強法を学んで欲しいと思っています。