いったい、何を間違えたのか?
私にはさつばりわからなかった。
日標を高く持ちすぎたのか、受験勉強が十分でなかったのか、SAT (大学進学適性試験)の点数が足りなかったのか。
はっきり言って、どうでもよかった。不合格のショックが大きすぎて、何も考えられなかった。
いや、それ以上に、自分がバカに思えて仕方なかった。自己啓発を謳う怪しいカルト集団に騙されて、
お金を払ったとたんに教祖が消えたような気持ちだった。
だから、大学を辞めてから態度を改めた。自分に厳しくする手をゆるめ、全力で走り続けることをやめた。
ソロー風の言い方をするなら、余白を広げたのだ。
改めると言っても大したことはしていない。
ティーンエージャーだった私には半径1メートルしか目に入らなかったので、顔をあげて周りを見回しただけだ。
私はコロラド大学に入り直そうと思い、嘆願書を添えて入学願書を送付した。
当時は今に比べると、大学に入り直すのはそれほど大変ではなかった。
州立の大学だったことも手伝って、あまり苦労せずに入学を認めてもらえた。
コロラド大学に入ると、私の毎日は以前よりも充実した。しょっちゅうハイキングに出かけ
スキーを少々たしなみ、何にでも手を出した。
何もない日は惰眠を貪り、時間を問わず昼寝をし、隙間の時間に勉強した。
その生活には、規模の大きな大学では当然とされている行為が大量に混じっていた(そのすべてが合法かどうかはまた別の話だが)。
だからと言って、ジントニックを専攻したわけでは決して勉強をおろそかにはしなかった。
勉強を生活の中心に据えるのではなく、生活の一部にしただけだ
そうして良い生活習慣と悪い生活習慣を交錯させながら、私は大学生になった。
どこにでもいる大学生ではなく、数学と物理を勉強する責任を軽々と背負い
難易度の高い授業で単位を落とすことを恐れない学生となったのだ。
この変化は、唐突でも劇的でもなかった。鐘も鳴り響かなければ、天使も歌わない。
少しずつ起きたものだ。変化とはそういうものだろう。何年も後になってから、私は大学時代のことを振り返ってみた。
たぶん、そういうことをする人はたくさんいると思う。
振り返ってみると、さまざまなことに手を出し、悪い習慣も身につけたわりには、かなり良い成績を収めたと言える。
当時の私は、悪いと思っていた習慣が本当に悪いかどうかを考えたことはなかった。