受験勉強について

なぜ過去は鮮明に思い出せるの?【記憶について】

記憶と受験

いまでもはっきりと脳裏に浮かぶ

今では大学受験の塾講師をしている私も高校生の時はあった。

私は1974年9月に高校生活の初日を迎えた。

いまでも、1限目の鐘が鳴ったときに廊下 で話しかけた教師の顔を覚えている。

私は自分の教室がどこかわからず、人がいっばいの廊下に立ちすくみ、遅れたらどうしよう、何か大事なことを聞き逃したらどうしようと不安に思っていた。

そこに差し込んでいたくすんだ朝の光、汚れた茶色っぽい壁、ロッカーにタバコの箱を投げ入れていた上級生が、いまでもはっきりと脳裏に浮かぶ。私は廊下にいた教師に近づいて「すみません」と声をかけた。

その声は、思っていたよりも大きくなった。

教師は立ち止まり、私が持っていた時間割に目を落とした。

優しそうな顔に細いメタルフレームのメガネをかけた、赤毛が柔らかそうな男性だ。

「ついてきなさい」と笑顔まじりに教師は言った。

「君は私のクラスだ」助かった。

このときのことを思いだしたのは35年ぶりだったが、このとおりちゃんと覚えている。

それも、漠然とではなく具体的に思いだすことができ、長く考えるほど、細部がどんどんよみがえってくる。

リュックから時間割を取りだそうとしたときに肩からリュックが滑り落ちた感覚や、教師と並んで歩きたくなくて足取りが重かったこともよみがえった。

私は数歩離れて教師の後ろをついていった。

この種のタイムトラベルのことを、科学の世界では「エピソード記憶」または「自伝的記憶」と呼ぶ。

そう呼ばれるにはちゃんとした理由がある。

その記憶には、オリジナルの体験のときと同じ感覚、同じストーリー構成が含まれているのだ。

オハイオ州の州都や友人の電話番号を思いだすときは、それを覚えた日時や場所はよみがえってこない。

この種の記憶は「意味記憶」と呼ばれる。

それを記憶したときのストーリーには関係しないが、記憶している内容と関連性のある場面でその記憶がよみがえる。

たとえば、オハイオ州の州都であるコロンバスと聞くと、その地を訪れたときの風景や、コロンバスに引っ越した友人の顔、オハイオが答えのなぞなぞなどが思い浮かぶだろう。

これらは知識としての記憶であって、出来事に関する記憶ではない。

とはいえ、脳が記憶から「コロンバス」を引きだしたという記憶という意味では同じだ。

脳は好奇心が詰まった宇宙のようなものだ。

脳は宇宙
そこにはきっと、記憶の一覧表のようなものがあるのだと思う。

ブックマークの役割を果たす分子があって、それがいつでもニューロンのネットワークへのアクセスを可能にし、自分の過去、自分のアイデンティティを与えてくれるのだろう。

このブックマークがどのように機能するかはまだ明らかになっていないが、コンピュータの画面上に貼るリンクと異なることは確かだ。

ニューロンがつくるネットワークは流動的なので、いま私が思いだす記憶は、1974年当時にできた記憶とはかけ離れている。

詳細さや鮮明さが失われているし、昔を振り返るのだから、少々、いや、かなりの編集が加わっていると思う。

言ってみれば、中学2年生のサマーキャンプから帰った翌朝、キャンプで恐ろしい思いをした出来事について書き記し

その6年後、大学で改めてその出来事について書くようなものだ。

6年後の作文は最初のものとはかなり変わる。

作文を書く自分自身も、自分の脳も6年前とは変わっている。

それが生物学的にどんな変化をもたらしたかは謎に包まれているが、6年間の体験が影響を与えているのは間違いない。

とはいえ、出来事自体(ストーリーの大筋)は基本的にきちんと思いだすことができる。

このことから、専門家たちには、その記憶がどこに保存されているのか、なぜそこに保存されるのかの見当がついている。

しかもそれは、なぜか安心感を覚える場所だ。

高校生活初日の記憶が頭のてっぺんにあるような気がするなら、何とも素敵な言葉の一致だ。

まさにそう表現できる場所に保存されている。

「ニューロン」について②受験にも重要な脳内ネットワーク

ニューロンについてのお話第二弾(続き)です。引き続き大学受験の塾の先生としてではなく、脳に詳しい先生のお話として読んでください。

結合してネットワークを形成する細胞が、「ニューロン」と呼ばれるものだ。

ニューロンは生命活動に欠かせないスイッチの一種だと思えばいい。

結合する一方のニューロンから信号を受けとると、スイッチが入って(発火して)反対隣のニューロンへその信号を伝達する。

ニューロンのネットワークによって形成される記憶は、ニューロンが無作為に集まってできるわけではない。

特定の記憶が最初に形成されたとき、たとえば、ロッカーの扉をバタンと閉める音を初めて聞いたときに発火した細胞が集まってできる。

それらはいわば、その経験の目撃者集団だ。

そして、細胞どうしが接合する部分は「シナプス」と呼ばれ、接合が繰り返されるたびに シナプスの強度は強くなり、信号が伝達するスピードも速くなる。

そう聞くと本能的に納得できるだろう。

何かを思いだそうとしたときに、その何かを思い出そうとしたときに、その何かを頭のなかで再現する感覚になったことが何度もあるはずだ。

とはいえ、2008年になるまで、人間の脳細胞レベルで記憶の形成や引き出しが直接捕捉されたことはなかった。

その年、UCLA(カリフォルニア大学ロサンゼルス校)の医師たちが、てんかん治療の手術を待つ患者13人の脳に糸状の電極を装着してある実験を行った。

電極の装着は、てんかん治療では日常的に行われている。

てんかんの全容はまだ解明されておらず、突然発作が起こるのは、脳内で小さなハリケーンのような電気的な活動が

起こるせいだと言われている。

発作の原因となる活動は同じ部位で起こることが多いが、その部位は人によって異なる。

外科手術で活動の震源地を切除できるとはいえ、まずは発作が起こるときに立ち会って記録し、震源地を見つけないといけない。

電極を装着するのは、震源地を特定するためなのだ。

特定には時間がかかる。

発作が起こるまで、患者は電極をつけたまま何日も病院のベッドで横になって

UCLAの医療チームはこの待ち時間を利用して、根本的な疑問の答えを見つけようとした。

患者は発作が起こるのを待つあいだ、5〜10秒の映像をたくさん見せられた。

アメリカの国民的テレビドラマ『となりのサインフェルド』やアニメ番組『ザ・シンプソンズ』、エルヴィス・プレスリー、有名な建造物など、アメリカ人なら誰もが知っている映像ばかりだ。

その後短い休憩を挟んだ後、医師が患者に先ほど見た映像を思いだせるかと尋ね、思いだしたら声をかけてほしいと頼んだ。

映像を見ているあいだの脳の動きをコンピュータで記録したところ、

約100個のニューロンが発火していた。

発火するパターンは映像ごとに違い、ある映像では激しく発火しても別の映像ではおとなしいニューロンもあった。

そして、映像を思いだしたとき、たとえば 『ザ・シンプソンズ』の主人公ホーマー・シンプソンの映像を思いだしたときは、その映像を最初に見たときとまったく同じパターンでニューロンが活動した。

まるで、最初に見たときの体験を再生しているかのようだった。

「無作為に映像を見せる実験でこの結果が表れたことには驚いていますが、この現象が強く現れたことから

我々が調べようとした場所は正しかったのだと確信しました」と、この研究論文の上席著者で

UCLAとテルアビブ大学の脳外科教授でもあるイツァーク・フリードは私に言った。

実験はこれで終了したため、時間がたったらその映像の記憶がどうなるかはわからない。

被験者が『ザ・シンプソンズ』を何百回と見た人だったとしたら、ホーマーが出てくる5秒の映像はあまり長く覚えていないかもしれない。

しかし、そうとは言い切れない。

その映像を見ていたときの何かがとくに印象に残った-たとえば、

脳に電極をつけてくれた白衣の男性が高笑いしているホーマーに見えたとすれば

そのときの記憶はどれだけ時間がたってもすぐに思い出すことができるだろう。

「ニューロン」について①受験にも重要な脳内ネットワーク

ニューロン

「隠喩」という言葉について説明しておこう。

少し大学受験とは話が逸れますが、少し休憩という意味で楽しんで読んでもらえればと思います。

塾の先生というよりは能に詳しい学者さんのような文章ですが気にしないでください。

さて「隠喩」が何を表現しているかは、その定義上、不明確である。

はっきりとそこにあるものの、それが何かは曖昧でしかない。

それに、隠喩は目的を満たすため、ご都合主義になりがちだ。

言ってみれば、脳内化学物質の不均衡によってうつ病になるという理屈で、抗うつ剤の使用を認めるのと同じだ(うつ病の原因も、抗うつ剤の効果が表れる理由も明らかになっていない)。

それならそれで文句はない。自分ドキュメンタリーの映画製作チームの隠喩は不正確なものだ。

しかしそれは、記憶という生命現象に対する科学者の理解も同じだ。

科学者にできるのはせいぜい、学習にとって大事なことを浮き彫りにすることくらいなので、映画製作チームの隠喩が不正確でも文句は言えない。

脳内の記憶

記憶について
それでは、脳内にある具体的な記憶をさかのぼり、記憶の仕組みを見てみるとしよう。

せっかくなので、思いだす対象はおもしろいものにしたい。

オハイオ州の州都、友人の電話番号、映画『ロード・オブ・ザ・リング』でフロド役を演じた俳優を思いだすのではつまらない。

高校生活の初日を思いだしてみてほしい。

廊下に足を踏み入れたときの緊張感、横目で見ていた上級生の存在、ロッカーの扉をバタンと閉める音。

15歳以上の人なら誰もが、その日のことを、 たいていの場合は1本の動画のような形で思いだす。

脳内にあるその記憶は、細胞が結合してできるネットワークという形で存在する。

そのネットワークを構成する細胞は、結合すると活性化する(脳科学の世界では「発火」という言い方をする)。

クリスマスの時期にデパートのショーウィンドウに飾られる、イルミネーションを思い浮かべてみてほしい。

クリスマスのイルミネーションは、青の光が点灯したらソリが現れ、赤が点灯したら雪の結晶が現れる。

脳細胞のネットワークもそれと同じで、脳が読み込んだ画像、思考、感情のパターンをつくりだす。

続きを読む→【「ニューロン」について②学習にも重要な脳内ネットワーク】

勉強を科学する。②【人気塾講師のコラム】

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脳にはさまざまな部位があり、それぞれに固有の働きがある。

嗅内皮質には嗅内皮質の、海馬には海馬の働きがあるのだ。

脳の右半球と左半球でも、その機能は異なる。

脳はストーリーを作る

感覚をつかさどる領域についても同じで、見たこと、聞いたこと、感じたことをそれぞれ専門に処理する部位がある。

それぞれの部位がそれぞれの仕事をし、それらが一体となって、過去、現在、起こりうる未来の記憶を絶えず更新し続けているのだ。

ある意味、固有の働きを持つ部位は、映画の製作チームを構成するスペシャリストのようなものだ。

カメラマンは撮影する構図を決め、被写体に寄ったり遠ざかったりしながら映像を撮りためていく。

音響技師は、映画に使用する音楽の録音、シーンに応じた音量の調節、雑音の排除などを担当する。

ほかにも、編集技師、作家、画像処理担当者、小道具担当者、映像にトーンや感情を加える作曲担当者をはじめ、請求書で正確な数字を管理する予算担当者もいる。

そして、すべてを決めるのが監督だ。各スペシャリストの仕事を一つにまとめ、それらを土台にしたストーリーを語る。

もちろん、ストーリーは何でもいいというわけではない。

観客の五感に「スペシャリストの仕事」を最高の形で伝えるものでないといけない。

脳は、何かが起きた瞬間にその「シーン」を解釈しようとする。

その場で、自身の私見、意味、背景事情を盛り込もうとする。それだけではない。

後からそのシーンを再構築することもある。

たとえば、上司から何かを言われ、後になってから「先ほどの上司の言葉はどういう意味だったのだろう?」と思うことがある。

そのとき、脳は実際に発言を聞いたシーンを精査しながら、もっと大きな流れのなかではどこにどう当てはまるかと考えている。

脳がつくるのは、自分自身のドキュメンタリー映画だ。

そしてこの映画の「製作チーム」は、各シーンの背後で起きていることに命を吹き込む。

記憶はどう形成されるのか。記憶はどう引きだされるのか。

大学受験も同じように

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受験勉強をしている人や普段勉強をしている人が記憶について考えたことはないでしょうか。

時間がたつにつれ、記憶が曖味になったり変わったり、あるいは明快になったりするように思えるのはなぜか。

また、自ら記憶の詳細を増やす、鮮明にする、わかりやすくするといった操作はどのように行われるのか。

先に述べたスペシャリストの働きは、こうしたことの隠喩なのだ。

このドキュメンタリー映画の監督は、映画学校の卒業生でも、取り巻きを従えたハリウッドの巨匠でもない。ほかでもないあなた自身である。

勉強を科学する。【人気塾講師のコラム】

勉強を科学する

学習を科学するということ

突き詰めれば、精神的な筋肉ー活動中の脳ーの働きを知り、 日々の生活のなかで日、耳、鼻を通じて入ってくる情報を、脳がどのように管理するかを知るということである。

脳がそういう働きをするだけでも不思議でならないのに、それが当たり前のように行われるのだから、驚嘆するしかない。

朝目が覚めるたびに、どれほどの情報の波が押し寄せてくるか想像してみてほしい。

ヤカンのお湯がわいた音、廊下で何かが動いた気配、背中に走る痛み、タバコの匂い…..。

情報が入ってきたら、複数のことを同時に行う命令が下される。

食事の支度をしながら幼い子どもの様子に気を配り、仕事のメールが入ってきたら返信し、友人に電話をかけて近況を報告しあう。

考えただけで頭がおかしくなりそうだ。

こうしたことを一度に行える脳というマシンは、単に仕組みが複雑なだけではない。

さまざまな活動が起こる場でもある。

脳は、蹴り飛ばされた蜂の巣のように、めまぐるしく動いている。

いくつか数字を見てみよう。

人間の脳には平均して1000億個のニューロン (神経細胞)

脳内ニューロン
それらが集まっている領域を灰白質と呼ぶ。

ほとんどのニューロンが膨大な数の別のニューロンとつながりを持ち、絶え間なく交信しながら密接に連携するネットワークをつくっている。

音もなく電気的な信号が飛び交うこの宇宙には、100万ギガバイトの記憶容量がある。

テレビ番組に換算すると、300万番組を保存できる。

この生けるマシンは、傍から見れば「休憩中」のときでさえ絶え間なく活動する。

鳥の餌箱をほんやりと眺めていたり、空想にふけったりしているときでも、クロスワードパズルを解いているときに消費するエネルギーの90パーセント前後を使っている。

眠っているときに動きが活発になる部位まである。

脳は特徴のほとんどない真っ暗な惑星

のようなものなので、地図があると便利だ。

まずは、簡単なものが一つあれば十分だろう。

次ページに紹介する図は、学習の中心となる部位を表したものだ。

「嗅内皮質」は、脳に入ってくる情報をふるいにかける役割を担う。

「海馬」は記憶の形成が始まる場所で、「新皮質」では、保存する価値があるとの信号が発せられた情報が顕在記憶として保存される。

続きを見る→ 【勉強を科学する。②】

塾講師が語る④大学受験生が身につけるべき「学ぶ力」

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新たなアイデアが次々に生まれている

この本を通じて、学習のことを完璧にわかっているふりをするつもりはない。

研究はまだ終わっていない。それどころか、全容を複雑にする新たなアイデアが次々に生まれている。

たとえば、失読症はパターン認識の力を向上させる。

バイリンガルの子どものほうが勉強ができる。数学恐怖症は脳の障害による。

ゲームは最高の学習ツールである。音楽の練習は、科学を 理解する力を高める。

このように、たくさんのアイデアが生まれているが、その大半は背景で木の葉がカサカサと音を立てる雑音だ。

この本では、木の幹を追っていく。精査に耐えた基本理論や研究成果にもとづいて、学習する力は改善できることをわかってもらいたい。

思いだすこと、忘れること、覚えること

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本書は四つのパートに分かれている。まずは、脳細胞がどのように形成され、新しい情報をどう保存するかを説明する。

脳の仕組みを知ることで、学習がどのように起こるのかを具体的にイメージできるようになる。

学習について研究する認知科学という学問は、思いだすこと、忘れること、覚えることの関係性を明確にしてくれるものだ。

パート1では、学習に関する理論を知ってもらう。

パート2では、情報を保持する力を高めるテクニックを見ていく。

ここで紹介するテクニックは、覚えたいと思うことなら、アラビア文字でも、元素の周期表でも、ビロード革命の主要人物でも、何にでも適用できる。

要は、記憶をとどめるためのテクニックだと思えばいい。

「考えない学習」

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パート3では、問題解決力の向上に活かせるテクニックに焦点をあてる。

ここで紹介するテクニックは、数学や科学の個々の問題はもちろん、期末試験、職場でのプレゼンテーション、設計、作曲といった、長い期間にわたって勉強や作業が必要となることにも活用できる。

テクニックがどのように作用するかを、少なくとも科学者たちがどう作用すると考えているかを理解すると、テクニックを思いだしやすくなる。

それに、こちらのほうが重要だが、いまの自分の生活のなかで実際に役立つかどうかの判断もつきやすくなる。

そして最後のパート4では、それ以前のパートで紹介したテクニックの効果を高めるために、無意識を活用する方法を2種類紹介する。

私はこの無意識の働きのことを「考えない学習」と呼んでいるが、これを知れば心強く感じるだろう。

本書を読んだからといって、必ずしも「天才」になれるわけではない。

天才に憧れるのはかまわない。遺伝子、意欲、運、人脈に恵まれた人には、心からおめでとうと言いたい。

だが、そんな曖味なものを目指しては、理想を崇拝して本当の日標を見失いかねない。

この本では、すぐに活用できること、ささやかだが偉大なことについて語っていく。

未知の何かを日常生活に溶け込ませ、自分の内側に浸透させる方法を説く。

学習を日常生活の一部にし、 厄介ごとだと思わないようにすることが本書の日的だ。

それを可能にするテクニックを見つけるために、最新の科学を掘りさげていく。

そうすれば、自分の能力が埋もれているといった感情や、不公平だという感情も消えるだろう。また、学習の最大の敵だと思われている、サボリ、無知、気晴らしといったことが、実は学習の味方をしてくれるということもお教えしよう。

塾講師が語る③大学受験制に知っておいてほしい「勉強常識の間違い」

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変化に効果があると信じることだろう

この数十年、学習を深めるテクニックが次々に明らかになり、実験が行われるようになった。

だが、そのテクニックのほとんどは、専門家以外の人には知られていない。

科学者たちは、コンピュータ・ソフトウェア、ガジェット、薬剤などを使ってもっと賢くなる方法を探しているわけではない。

また、学校全体の成績向上を目指すという教育哲学のもとに研究しているわけでもない(そういう実験を信頼できる形で行った者はいない)。

それどころか、彼らが研究していたのは、小さな変化ばかりだ。

それも、生活のなかに個人ですぐに取りいれられるような、勉強や練習における小さな変化である。

取りいれるにあたってもっとも難しいのは
その変化に効果があると信じることだろう。

このような調査は、これまで勉強にとって最善だと教えられてきたことと矛盾する。
昔から言われ続けてきた

「静かな場所を見つけて自分の勉強場所に決めなさい」

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というアドバイスについて考えてみよう。当然のことだと思う人は多いだろう。

雑音がないほうが集中しやすいし、いつも同じ机を使うようにすれば、その席に座ることで脳に「勉強の時間だ」という信号を発することになる。

ところが、学習を研究する科学者によると、勉強する時間帯を同じにせず、場所も変えたほうが学習効率が高まるという。

逆に言えば、時間や場所を固定すると、学習効率が下がるのだ。

特定のスキル(割り算の筆算や楽器でスケールを弾くことなど)を習得する最善の方法は、それだけを繰り返し練習することだともよく言われる。

だがこれも間違いだ。一つのことだけを繰り返し練習するよりも、関連性のある複数のことを混ぜて練習するほうが、脳は効率よくパターンを見いだす。

その人の年齢や、習得したいジャンルは関係ない。

イタリア語のフレーズでも、化学結合でも、結果は同じだという。

こうした話を聞くと、私は奔放に過ごしていた大学時代の自分を思いださずにはいられない。

徹夜したいときは徹夜し、昼間は好きなだけ昼寝をし、計画に従って行動することへの反発を楽しんでいた。

自由な生活をすれば、必ずスキルを習得できると言うつもりはない。

だが、そういう無秩序な生活に学習を溶け込ませるようにすれば、さまざまな場面で思いだす力が向上するのではないか。

また、先延ばしがひどい、気晴らしばかりしている、といった態度も、悪習とは限らないのではないか。

昨今、デジタルメディアがもたらす弊害や依存の危険性を訴える声が大きくなっているが、学習の科学の見解はそうした警告とは異なる(ただし、これは学習の科学の一側面でしかない)。

デジタルの世界につながると、メール、ツイート、フェイスブックのメッセージなどが一度に押し寄せてくる。

そんな状態では勉強に身が入らないのではないか、勉強以外のことに気をそらしていては、脳の学習する力が衰えていくのではないか、と危惧する人は多い。

確かに、デジタルメディアは人の気をそらす。

もちろん、小説を読むときや講義を聴くときのように、その世界に没頭することが求められる学習の場合は、気をそらすことは学習の妨げとなる。

また、ソーシャルメディア上でウワサ話をしていれば、当然、そのぶん勉強時間は奪われる。

たが、学習の科学では、数学の問題で行き詰まったり、固定観念を払拭する必要があるときは、短い気晴らしを挟むとよいと言われている。 要するに、

学習に正しい方法も間違った方法もないのだ。

方法が違うだけであり、方法が違えば、得意とするタイプの情報も変わる。

優れた猟師は、獲物に応じて仕掛ける罠を使い分ける。それと同じだ。

【大学受験対策】学習するマシン=脳の奇妙な特徴

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どうすれば脳がもっとも効率よく学習するか

2000年代の初めから、私は新聞記者として「学習と記憶の科学」を追いかけるようになった。

最初はロサンゼルス・タイムズに勤務し、その後ニューヨーク・タイムズに移った。

このテーマを具体的に言うと、どうすれば脳がもっとも効率よく学習するかを知るというもので、私にとっては心躍るテーマとは呼べなかった。私はほとんどの時間を、精神医学や脳生物学といった、行動が関係するもっと大きな分野の取材に費やしていた。

だが、いつも学習分野に引き戻された。

というのは、信じがたい話ばかり耳に入ってくるのだ。

正当な科学者だというのに、彼らが学習や記憶に影響を及ぼす要因として調べていたのは、取るに足らないものばかりだった。

勉強中に流すBGM、勉強する(教科書を開く)場所、休憩時に行うゲーム……。

本当に、そんなものが勉強に影響を及ぼしたのだろうか。

もしそうなら、なぜ影響するのか?

勉強ヘッドホン
どの研究も、研究対象の影響をきちんと説明していた。

どうやらどの要因も、脳の明らかになっていない何かが関係しているらしい。

そうして深く調べれば調べるほど、奇妙な結果が見つかった。

気晴らしは学習の助けとなり、昼寝もそうだという。

始めたことを途中でやめてしまうのも決して悪いことではない。

完了させるよりも途中でやめるほうが、長く記憶にとどまるからだ。

これから学ぶ科目について、授業を受ける前にテストをすると、その後の授業でより多くを学ぶ。

こうした結果を知るたびに、何かが心に引っかかった。

最初はどれも信じがたいが、試してみる価値はあると思えた。

手軽に取り組めるものばかりだからだ。

無視する理由はない。

この数年、仕事でも遊びでも、何か新しいことを始めようとするたびに、あるいは、しばらく遠ざかっていたクラシックギターやスペイン語をまた始めようと思い立つたびに、次のことを自問するようになった。

「もっと効率のよいやり方はないだろうか?」

「試すべきことが何かあるんじゃないか?」

そうすると、実際に何かが見つかった。

学習の研究で明らかになったさまざまなテクニックを試すうちに、私は奇妙な親近感を覚え、すぐにその理由に思い至った。

大学時代の自分の行動に似ているのだ。

コロラド大学での私は、場当たり的に勉強していた。

もちろん、認知科学の最新原理に完壁に合致するわけではないが(原理とまったく同じことをするなど、現実世界ではありえない)、研究にもとづいたテクニックを使ったときの生活リズムに親近感を覚えたのだ。

私の日々の生活に、日々の会話に、ほんやりしているときに、さらには夢のなかにまで、研究成果やテクニックが入り込んでくる感じがした。

効果的な学習方法以上のことを教えてくれる

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そうした感覚が生まれたのは個人的な理由からだが、それをきっかけに、自分に役立つアイデアに個別に目を向けるのではなく、学習という研究分野全体について考えるようになった。

研究によって明らかになったアイデア (テクニック)は、それぞれ理にかなっていて、内容も明白だ。

難しいのは、それらを一つにまとめて考えることだ。

だが、その方法は必ずあるに違いないと考えるうちに、私は、それらのテクニックを一つにまとめる唯一の方法は、「すべてのテクニックの根底には同じシステムがあり、そのシステムの奇妙な特徴として個々のテクニックが存在するととらえること」だと思うようになった。

根底にあるシステムとは、活動中の脳だ。

別の言い方をすれば、学習の科学に関する数々の発見は、効果的な学習方法以上のことを教えてくれるということだ。

そうした発見を実践すると、 一つの生き方になる。
このように理解してからは、大学時代の経験を以前とは違った目で見られるようになった。

私が勉強の手をゆるめたのは確かだが、それにより、ほかのことをしている時間に勉強に関する情報が頭に入ってくるようにもなった。

そして、その勉強しない時間こそ、それ以前に勉強した内容を脳が受けいれる時間だ。

このときに、学習するマシンとしての脳の強みと弱み(その限界と計り知れない可能性)が明らかになるのだ。
脳は筋肉とは違う。

少なくとも、直接的な意味で別物だ。

脳は、気分、タイミング、体内時計のリズムをはじめ、場所や環境にも敏感だ。自分が認識するよりもはるかに多くのことを記録し、記憶した情報を思いだすときは、以前は気づかなかった細かい情報をつけ加える。

脳は夜も働きものだ。

眠っているあいだに、隠れたつながりを見いだしたり、その日あった出来事の重要な意味を深く堀りさげたりする。

また、無秩序よりも意味のあるものを強く好み、意味のないものを不快に感じる。

それに、脳は命令どおりの働きをしないこともよくある。

試験のときに大事な情報は思いだせないのに、なぜか、映画『ゴッドファーザー』の全シーンや、1986年のボストン・レッドソックスのラインナップは思いだせるというような経験は誰にでもある。

脳が学習するマシンだとすれば、一風変わったマシンだと言える。

そして、脳が持つ奇妙な特徴が活用されるとき、その働きが最大になる。

大阪の塾講師が語る②【受験勉強を生活の一部に】

大学受験の悩み

いったい、何を間違えたのか?

私にはさつばりわからなかった。

日標を高く持ちすぎたのか、受験勉強が十分でなかったのか、SAT (大学進学適性試験)の点数が足りなかったのか。

はっきり言って、どうでもよかった。不合格のショックが大きすぎて、何も考えられなかった。

いや、それ以上に、自分がバカに思えて仕方なかった。自己啓発を謳う怪しいカルト集団に騙されて、

お金を払ったとたんに教祖が消えたような気持ちだった。

だから、大学を辞めてから態度を改めた。自分に厳しくする手をゆるめ、全力で走り続けることをやめた。

ソロー風の言い方をするなら、余白を広げたのだ。

改めると言っても大したことはしていない。

ティーンエージャーだった私には半径1メートルしか目に入らなかったので、顔をあげて周りを見回しただけだ。

私はコロラド大学に入り直そうと思い、嘆願書を添えて入学願書を送付した。

当時は今に比べると、大学に入り直すのはそれほど大変ではなかった。

州立の大学だったことも手伝って、あまり苦労せずに入学を認めてもらえた。

コロラド大学に入ると、私の毎日は以前よりも充実した。しょっちゅうハイキングに出かけ

スキーを少々たしなみ、何にでも手を出した。

何もない日は惰眠を貪り、時間を問わず昼寝をし、隙間の時間に勉強した。

その生活には、規模の大きな大学では当然とされている行為が大量に混じっていた(そのすべてが合法かどうかはまた別の話だが)。

だからと言って、ジントニックを専攻したわけでは決して勉強をおろそかにはしなかった。

勉強を生活の中心に据えるのではなく、生活の一部にしただけだ

受験勉強を生活に
そうして良い生活習慣と悪い生活習慣を交錯させながら、私は大学生になった。

どこにでもいる大学生ではなく、数学と物理を勉強する責任を軽々と背負い

難易度の高い授業で単位を落とすことを恐れない学生となったのだ。

この変化は、唐突でも劇的でもなかった。鐘も鳴り響かなければ、天使も歌わない。

少しずつ起きたものだ。変化とはそういうものだろう。何年も後になってから、私は大学時代のことを振り返ってみた。

たぶん、そういうことをする人はたくさんいると思う。

振り返ってみると、さまざまなことに手を出し、悪い習慣も身につけたわりには、かなり良い成績を収めたと言える。

当時の私は、悪いと思っていた習慣が本当に悪いかどうかを考えたことはなかった。

大阪の塾講師が語る①【受験は努力だけでは報われない】とはどういう意味か…

大学受験ガリ勉

私は「ガリ勉」だった。

昔の自分を表現すると、どうしてもこの言葉になる。

何しろ私は、細かいことがいちいち気になり、暗記用の単語カードを自作する子どもだった。

40年近くたったいまでも、努力家で、勉強の虫で、働きバチだったこの少年が、安物のデスクランプの明かりに目を細めながら、

教科書にかじりついている姿をはっきり思い浮かべることができる。

この少年は朝も早く、5時には勉強を始めていた。

高校2年生になって習得できないことが出てくると、胃に不快感を覚えるようになった。

二次方程式の解の公式、アメリカがルイジアナを買収したときの条件、武器貸与法、平均値の定理、

詩人のT・S・エリオットが隠喩を用いて皮肉を表す用法…。

こんなのは序の口だ。

私は学校の授業にすっかりついていけなくなった。

だから、不安しかなかった。時間が足りないのに覚えることは多すぎて、なかにはとても理解できそうにないこともある。

そういえば、不安とは別に自分を疑う気持ちもあった。ただしこちらは、階下の風呂場でしたたる水滴と同じで、自覚するのに時間がかかる。

たとえば、運動能力の高い同級生が汗一つかかずに山小屋へたどり着くのを見たとき、

私はルートを間違えて遠回りしたのではないかと自分で自分を疑った。

私はご多分にもれず、学習は自己の鍛錬がすべてだと信じて大きくなった。

賢い人々が暮らす、知識という険しい岩山をひとり孤独に登るつらい作業、それが学習だ。

私の場合は、好奇心や疑問からというよりも、その山から落ちるのが怖くて勉強していた。

そうした不安から、変わり者の生徒が誕生した。

勉強に自信が持てない時代

勉強に自信がない
弟や妹にとってはミスター・パーフェクトで、ほぼAをとる真面目な兄だった。

だが、クラスメイトにとっての私は透明人間だった。

自分の理解に自信がなさすぎて、ほとんど発言しなかったのだ。

こうした二面性を持つようになったからといって、当時の私、両親、教師の誰のことも責めるつもりはない。

どうして責められるだろう?学習にある程度没頭できるようになる方法と言えば、ソリ犬のごとく自らを駆り立てること以外に誰も知らなかった。

勉強で成功するためにもっとも重要なのは努力だと、誰もが思っていた。

だが、私はすでに努力していた。もっと違う何かが必要だった。そして、その何かはきっとあると感じていた。

最初のヒントとなったのは同級生の態度だった。

私のクラスには、代数や歴史の授業で追い詰められた顔になることなく実力を最大限に発揮できる生徒が数人いた。

その場ですべてを理解しなくてもよいというお墨付きをもらっているかのように振る舞い、

彼らが疑問を口にすると、それ自体が貴重な武器に思えた。

だが、私にとって本当の転機となったのは大学入試だった。私が勉強してきたのは、もちろん、 大学に入るという使命のためだ。

だが、その使命は果たせなかった。

何十という願書を送ったが、見事に閉めだされた。

何年にもわたって水夫のような苦労を積み重ねたというのに、最後に残ったのは、一握りの薄い封筒と補欠合格の1枠だけだった。

その大学に入ったものの、1年で退学した。